寝台特急「はやぶさ号」乗車記(つづき1)

今日は朝から冷たい雨、雪になるかもと思っていたら、案の定ニュースで都内は雪だとのこと、気温は2度ということだ。今冬初めての雪だという。
昨日の朝、ゴミ出しに行った時、ウグイスの声づくろいを聞いた。ああ、もうウグイスが春を感じ始めたのだと思ったばかりだったのに、この寒さである。
さて、これから「はやぶさ号」に乗ったときのことを書きます。横浜発18時28分。
「新横浜」発ではないのです。普通の通勤列車にまじって走るのです、といわなければ勘違いしてしまうほど、もう私たちは新幹線に慣らされているのですね。
本当にこのホームでいいのだろうか、そして停車時間は僅かなので、どの辺に待っていればいいのだろうかと心配なので、前々から落ち着かず、その日も少し早めに出かけたのでした。ホームにも少し早めに出て、駅員さんに尋ねようとしたのですが、今はその姿がほとんど見当たらないのです。合理化ということで人員も少なくなり、仕事もびっしりと決まっているようで、ぶらぶらしている人などはいません。仕方なく、ホームで工事をしている人に声をかけて、聞いてみたりしました。その人も、ああそういう列車がここに停まるみたいだ、という風な認識しかなく、それで説明してあげたりしたのでした。カメラマンも撮影に集まっているようなことも、言われて見れば見ているようでした。そしてたぶんこの辺に待っていればいいだろうということを、駅員ではなくその人に教わったのでした。そのうち向かいのホームにカメラマンたちが数人現われ、三脚を立てたりしていました。待っているのは「はやぶさ号」である事は間違いないのです。
ところがアナウンスを聞いていると、どうも事故が起こって遅れている様子、京浜東北線に人身事故があり、それにより並行して走っている列車に遅れが出ているとのこと。おやおや、やっぱり始発の東京から乗ればよかったなあ・・・と思ったものです。なぜなら、この特急券を手に入れたと話したとき、自分だったら横浜からではなく東京からにするのに・・・とある人に言われたからでした。その人はマニアではありませんが若い時に各地を旅したことがある人で、寝台特急も乗ったことがあり、始発だと入線してから発車まで時間があるのでゆっくり乗車できるし、その間のひと時がなんとも言い難い旅情がある・・・と。
言われてみればその通りでした。用事での乗車なら時間と費用がほんの少しですが節約になりますが、今度のような場合は、やはり東京から乗るべきだった、ついいつもの倹しさから安い方を選択してしまうものだと思ったのでした。特急寝台の料金は変らないのです。ただ乗車料金が少し高くなるだけだったのに・・・。こういう事故で遅れても列車に乗っていれば、ただ走るのをまっていればいいのに・・・・。
でも、かえってカメラマンたちが居て、うるさいだろうから、これでよかったのでは・・・と負け惜しみを考えたり。結局17分遅れで、列車はやってきました。今日に限って事故で遅れて・・・と気の毒がってくれていた工事の人も、やっと来ましたねと、言ってくれたのでした。
実は、予約の切符を引き取りに窓口に行ったとき、「東京〜横浜」までの寝台特急券など買う人などいないから空いている筈、そこで東京からに切りかえてもらおうと思っていたのでした。ところがそれがもう買われていたのです。その人はどうしたのでしょう?
さてこれから16時間ほどの旅が始まります。そのなかで17分遅れなど、少々寒かったけど大したことはありません。いわんや人身事故で重傷を負ったか命を失くしたかをした人に比べると・・・。
くだくだしく書き始めてしまいましたが、こんな風に書こうなどと思ってもいませんでしたが、どうせ時代遅れの長旅です。このブログも時代遅れの書き方で、書いていこうと思います。後は又次回で。

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最後の寝台特急「はやぶさ号」に乗る

東京から九州に向かって走っていた寝台特急、ブルートレインといわれ愛されてもいたこの列車たちが、新幹線や航空機によって次々に姿を消していたが、この3月14日のダイヤ改正で全てなくなる。これを知った時、是非これで帰郷しようと思った。
昭和30年、「もはや戦後ではない」という言葉をスローガンに、国民生活も経済も高度成長の軌道に乗り始めた頃から、「あさかぜ」をはじめとして「さくら」「はやぶさ」「みずほ」日豊線に入っていく「富士」が、次々に登場した。
それから50年、全てが姿を消そうとしているのである。もちろん「トワイライトエクスプレス」など観光を目的とした、北に向う豪華特急寝台、それに類した列車が新しく登場してきたが、それはジャンルが違う。私が上京した頃は、これが輸送手段であり、庶民にはこれしかなかった。これに乗るのが移動の手段であると同時に、またこれに乗れることが憧れでもあった。これを手に入れることが難しい時期もあり、また乗る喜びがあった。ゴトゴト揺られて眠れない苦痛もあったが、朝起きて顔を洗い、ホテルに泊まった気分で食堂車に行く贅沢も時には味わい、上りでは車窓に大きく姿を現してくる富士山に声を上げ、また下りでは瀬戸内海を眺める楽しみや関門海峡のトンネルを実感がある。また門司駅では機関車の付け替えで少し長く停車する儀式が行なわれて、これは使用されている電流の違いだそうだが、二つの島がこれによって結ばれている事が知らされるのである。
さて、そう思うと廃止まで一ヶ月余、ぐずぐずしていると切符を手に入れにくくなると思い、早速行動に移した。案の定一ヶ月前の発売と同時に売切れてしまうようである。しかも私は今回はB寝台でもソロ(個室)があり、しかも解放寝台と同じ値段だということを知り、それを取ろうと思ったのだった。しかし手を尽くして4日目に、幸いにも手に入れることができた。何と言っても今は鉄キチという人が増えているようである。それに私のように懐かしさから思い立つ人もいるだろう。後で読んだ新聞記事によると、最終列車になる3月14日は、発売から10秒で完売だったという。手に入ったことに少々興奮しながら、その日を待った。
その日については、また稿を改めます。

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ドキュメンタリー映画『エンロン』

低気圧通過による風雨の後、急に春真っ盛りの気温になり(23度!)、気持ちが悪いくらいの今日、近くのホールで行なわれた自主映画で、この作品を見てきました。
「エンロン」とは、アメリカで急成長を遂げた巨大企業、それが不正を暴くある記事により一転株価の大暴落、その後に次々とその正体は明るみに出て、その記事から46日後には破綻に追い込まれた、いわゆる「エンロン・スキャンダル」と言われているそうであるが、私は名前くらいは聞いたことがあるような、という感じでほとんど何も知らなかったのである。
ドキュメンタリーであるが、まさにテレビゲームの世界のようだ。だがこれは現実の、巨大な多国籍企業が(実際はそれを動かす数名のボスたち)、実業者だけでなく政治家や銀行公認会計士や弁護士、もちろん現場で働く労働者を巻き込んで、「儲かる」という金銭感覚(すなわち欲望)による、世界を舞台にしたゲームに思えた。
1985年、天然ガスのパイプライン会社として設立されたこの会社は、テキサス州のヒューストンに本社をおいて次第に世界最大のエネルギー卸売り会社となっていく。(それゆえブッシュ元大統領父子とも、家族ぐるみの付き合いで、政治家も絡む)規制緩和によって業務拡大、僅か15年間で全米第7位の巨大企業になり、海外進出も41カ国。それにつれて業種も卸しだけでなくオンライン・サービスやブロードバンド業、エネルギーサービスなど拡大。
細かなカラクリは、私のようなものには分らないが、規制緩和、自由競争、市場原理などというものは、大きければ大きいほど更に大きくなり(大量生産で価格が安く出来る。儲けが出る)、小さいものは負けて潰れるか吸収される。次第に少数のものが巨大になっていくものなのだということが分った。
そして巨大になったものは、常にどんどん大きくなっていかねばならない宿命を持つ。すなわち停滞する事ができないのである。なぜなら大きくなるためには先を見越した設備投資をしているわけで、立ち止まると、先を見越した設備投資の分は赤字になる。たとえばインドに巨額の設備投資をして発電所(?)のような物を作る計画。しかしその電力を買えるような会社はインドにはなく、その計画は頓挫して、その現場はいまは廃墟と化しているとか・・・。
結局、エンロンの現実は赤字だらけだったようである。しかし幹部は大儲けしていて(潰れる前に何億と儲けて退職した幹部はいま南部で大地主になっている)、ボーナスも多額で、従業員たちは誇りを持って働いていた。なぜ業績は上がらないでも、現実に儲けがなくても、給料が払え、幹部たちは何億と収入が得られるのか?
それは株式市場という「場」があるからである。エンロンの株は、どんどん上昇したのだそうだ。急成長するエンロンはどこまでも成長するという「エンロン神話」が生まれ、株はどんどん買われ、値段は高くなる。儲けは、その利鞘から出てくる。バブル神話と同じことだ。実際の経営状態については、最後まで明らかにされなかったのである。それを監査する組織も、それを見逃していた、というよりそれによって懐を肥やしていたので、眼をつぶっていたのである。政治家も同じことだ。
タイタニックの船長である事を、ボスたちは感じていて、いつそれが来るかと思っていたようで、社長のケン・レイの顔が次第に疲れ衰えていくのからも感じられた。それでも投げ出すわけには行かないのは、それを知りながら、なおかれらを存続させることで儲かる人がいたからである。またその企業の未来を信じ働く従業員がいたからである。
しかし株式の大暴落をきっかけとして、2ヶ月も経たないうちに潰れ、後は負債総額2兆円、失業者は2万人、従業員(その年金資産も)をはじめエンロンに投資した巨額の資産は失われた。
エンロンの宣伝コピー(コマーシャルの最後に登場したという)は,「Ask Why」 (常に疑問を)というのは、皮肉である。責任者たちは裁判にかけられたが、最高責任者のケン・レイは、有罪判決を受けた一ヵ月後に心臓発作で死亡した。
日本でもライブドアをはじめ、似たようなことが生じている。幻想とそれに踊らされる群集心理、人間の欲望がそれを生み出すのであろう。映画の最初に映し出された高層ビルの一群は、東京のそれにそっくりで、株式市場が主導する経済というものが世界を動かしていることの実態に慄然とした。

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六国見山でジョウビタキに会う

冬型の気圧配置で日本海側は崩れているようだが、ここは雲一つない冬晴れの空、日なたはもう春の暖かさである。日ざしに誘われ六国見に散歩に出た。何しろこの家は北斜面なので、この暖かい太陽も10時過ぎから2時近くまでで、後は遮られてしまう。
冬場は野鳥を見るには絶好の季節、落葉樹はすっかり葉を落としているので、鳥の姿がよく見えるからである。この間は双眼鏡を持って行かず残念な思いをしたので、今回は忘れずに持参した。
思ったとおり麓の登り口の、最も日当たりのいいところでジョウビタキに出会った。もちろん雄である。
赤橙色の胸と尾ですぐ分る。眼の上の頭部から首にかけては青みがかったグレイ、喉と羽根は黒、その羽根に紋のような白い部分がある。だから定紋のあるヒタキと名づけられたわけだが、スズメより少し大きいその鳥は、紋付を着たというふうに、どこかおっとりとして優美である。黒目も大きく可愛らしい。
双眼鏡を向けても驚かず、枝に止まって細かに尾を震わせている。日差しを浴びて気持がいいのだろうか。動くと飛び去ると思ったので、私も暫く背にポカポカ日を受けながら立ちつくしていた。別の枝に飛び移ってからもまだ飛び去る様子もなく、かなりゆっくりとその姿を堪能したのであった。
そのほか、鳥の姿はなかった。出かけたのは、朝でも夕方でもなく2時近くなので、人も犬も散歩の時間ではなく、鳥もきっと物陰でまどろんでいるのであろう。人間と同様、時間も所もおかまいなしというようなカラスでさえ、時々遠くから間延びした声が聞こえてくるだけで、静まり返っていた。
頂上から見晴らす海や山は薄い霞がかかっている。ここも無人だった。
ジョウビタキは、昔はこの家にも訪れる事があったが、今はない。その彼に久しぶりに会えたことが嬉しく、冬芽に春を感じている木々の中、落ち葉を踏みしめながら下りていった。
いまこの庭に咲いているのは、梅、ヒイラギ南天、水仙、桜草も少し。気がつかなかったけど馬酔木も(今年は花が少ない)咲きはじめました。

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台峯歩き(洞門山のこと。テニスコートの件も)

今年初めての台峯歩きです。
集合場所への途中、例の洞門山破壊の立て札が黄色の紙になっていた。さては・・・・
と近づいてみると、反対の陳情が市議会で採択され、工事はいったん中断ということになったという経過報告。その噂は暫く前から流れていたのですが・・・まさに朗報です!
またこれは「歩く会」で聞いたことですが、ここでも書きました、台峯に隣接した地を宅地化にするに当って、鳥の渡りに重要な崖と谷を含む緑地を崩してテニスコートにする(更地にしてマンションか何かにするつもり)という計画も、いったん許可が下りましたが(これは明らかに当局のミスがあった)これも市が買い取るという形で保全が出来そうだという事です。これにも安堵。
洞門山については、工事は中止という事になりそうですが、それを全て市が買い取るのは費用上難しい。(とにかくこういう所はあちこちあるわけで)、協力したPTAの人たちを中心にしたトラスト運動を立ち上げ、市民から資金を集めるということになりそうだとのことです。
さて、今日の歩く会は参加者が少なく、14人でした。半数近くが初めての人。
今は見る花もなく、冬枯れで、しかしこういうときが鳥を見るのに一番適していて、しかも人数が少ないのが幸いと、案内をするKさんは満足そう。ほんとう探鳥は4〜5人がいいのだーと。このくらいだと鳥を警戒させたり驚かせたりしないからだそうです。
でもこの時期は、秋の名残もなく、春の兆しもない、一番冬らしい谷戸だそうです。それを十分味わってくださいとのこと。昨日の道の整備ではノスリ(ワシタカ科)やルリビタキが見られたと、期待させられます。
今回は、冬でも緑色をした元気なシダを集中的に観察して、その違いが分るようにということでした。
この地はシダが確かに多く、私の家の狭い庭にもいつの間にかたくさん生息しているのです。渡されたカラー写真の資料(実際ここで撮影されたもの)を見ながら、いろいろなシダを手で触ったり眺めたりして観察して歩きました。よく見られるベニシダとよく似たイタチシダの違い。ホシダとミゾシダの違い。まさに茎が猪のようなイノデ、紅い色をしたホラシダ、大型のコモチシダ、ヤブソテツの仲間など。また忘れるでしょうが、ここでは覚えました。
目撃できた鳥を挙げます。
先ず、コジュケイ。これは台峯への途中の住宅地で若鳥らしくて数羽が見られました。
梢を飛び交うシメやアカハラ、アオジなど、シベリアから渡ってきたというカシラダカも見えたのですが、私は鳥影をとらえるのが下手で、沼地に下りて餌をついばんでいる姿などのほかはあまり捉えることが出来ません。台峯のハンノキの沼でルリビタキも、これはやっと姿を捉えることが出来て満足。このルリビタキ、ルリ色があまり濃くないのはまだ2年くらいで若いからだとのこと。アオジは、ここの庭でも時々会えていたるのですが、いつも地面を跳んでいて、人をあまり恐れません。でも最近はやはり出くわす事はなくなったなあ。
昨年末から日本海側が大雪となったために、シベリアの方からやってきた冬鳥がそこからも押し出された形で、この辺に今やってきているのだそうで、鳥一羽でも大きく地球規模の気象と連動している事が分ります。このようにルリビタキやカシラダカがたくさん目撃できたのも、これまでにないとのことでした。
ノスリ゙は、さすがに見られませんでした。

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温泉文化という事

温泉から帰った翌日の日曜日、正午のニュースが終ってから始まる、NHKのFM「トーキング・ウイズ・松尾堂」を聴いていた時の事である。この時間は長い間「日曜喫茶室」が放送されていて、昼ごはんの流れでよく聴いていたが、それが最終日曜日だけとなって、後はこれにリニューアルされた。たぶん若返りのためだろうけれど、内容は同じようで、オーナーや主人が最近話題になった人や本を出版した著者、いろんな分野の人をお客に迎えて話を引き出すという趣向なので面白い。
先には喫茶室だったが、松尾堂は本屋という設定になっている。
この日の二人の客の一人が山崎まゆみというエッセイストであった。温泉ルポルタージュというか温泉エッセイスト、日本各地のみならず外国の温泉まで訪ね巡っている人らしかった。彼女によるとやはり日本人は温泉好きで、日本の温泉はその数も多いが楽しみ方も独特で、世界に冠たるものらしい。
話題の本は『だから混浴はやめられない』という新書版で、混浴の温泉を訪ね歩いてのルポということ。そのほかにも温泉に関した著書も幾つか著しているようである。混浴を妙な好奇心からでなく、それを一つの文化としてとらえたもので、不思議にも読者はいわゆる「おじさん」達ではなく女性が多いのだという。
温泉は元々混浴が多く、それが野蛮、風紀の乱れというふうに捉えられたのは明治以後の近代化によるものだった。また西洋の医療や健康のためといった合理的な温泉利用と日本のそれとは違っていて、そのことも最近では西欧でも注目されているようである。
この温泉談義をここに書いたのは、著者の山崎さんが温泉に関心、興味を持ったそもそもの動機について語った時、T温泉の名が出て来たからである。
実は彼女の両親になかなか子どもに恵まれず悩んでいた時、子宝の温泉として有名な近くの温泉に行って、(と聴いた時、出生の地が長岡という事なので、もしやと思っていたらそうだった)逗留したら自分が生まれたと聞かされて育ったと言う事だった。そしてその温泉は36度〜7度ぐらいの長く入れる温泉だった、ということからますますそうだと確信した時、その名前が出た。
T温泉、すなわち栃尾又温泉は古い歴史を持つ温泉で、およそ1200年前、行基によって発見開湯されたと伝えられる有数のラジウム温泉で、湯治場として利用されるようになったのも400年前、子宝の湯として知られ、宿の隣には薬師堂があり、たくさんの絵馬やキューピーが飾られている。テレビにも放映された事もある。私たち常連にはもう子宝には関係ないが、その効能については、そのほかいろいろあるのである。
人肌程度なので、長く入ることが出来るのがいい。今回も、今日は8時間も入ったという声が聞こえてきたりした。毎日10時間ぐらい入って、ここで湯治しつづけたら糖尿病が治ったとか言う人もいて、また傷にも効くので、交通事故の後療養に来たりもするそうだ。
ここも最初の頃は、元湯に近いところでは混浴であった。それで私たちは入れずに旅館内の内湯に入っていたのだった。そんな事を思いながらラジオを聞いていたのだが、今や女一人、国内外の混浴の温泉を巡り歩く人も出て来たということで、楽しくなってしまった。各地でそれが復活もしているようだ。そしてそれを堂々と楽しむ若い女性も出てきているようだ。といって私自身はまだ混浴に入る勇気はもてないでいる。
露天風呂は、今でこそ男女別にしたり時間制にして別にしているが、そもそも区別不可能な状態である。
そもそもそれは自然の中に融合するような形であるから、そこには猿でさえ入ってきて良いわけであり、傷ついた鹿であってもいい、人間も動物も、また男女という関係でも妙な意識は取り払われていいわけである。
温泉の効能は、身体だけでなく精神的な効能も大きいだろう。こういう温泉の効能、楽しみ方は今西洋でも注目されていて、それに模した温泉地の開発も始まり、今年はフランスで「雪国と温泉」というテーマのシンポジウム(?)のようなものが開かれるという。もちろんこれは川端康成の小説と関連させてという事らしいけれど。
まさに裸と裸のコミュニケーション、自然との一体感、日本的なのであろうけれど、中東のハマス軍とイスラエル軍の兵隊とを同じ温泉に浸からせれば、戦争などしたくなくなるのではないかと思うのであった。

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雪に降り込められた三が日(T温泉行き)

明けましておめでとうございます。
世に中は急激に厳しくなり、多難な時代に入っていくようですが、何とか良い方向へと向うようにと祈りつつ、今年もよろしくお願いします。
今年も例年どおり大晦日からT温泉に来て、雪国の元日を迎え、3日に帰ります。
この地でお正月を迎えるのは24年目、歳月の速さに感無量です。これまで温泉地もまた宿泊する私たち自身とそのメンバーもいろいろ推移、変化がありましたが、いまのところどちらも落ち着いた形になっています。即ち参加メンバーも昨年と同じ常連の8人、宿も交通事情も変りなく、昨年とほぼ同じ状況となりました。無事帰ってきました。
昨年と違うのは、お餅つきが恒例の2日となり(昨年は集中的に降った大雪のため、男衆の手が足りなくなって3日に変更され、私たちはその恩恵に与らなかった)、その雰囲気と振舞いを楽しむことが出来て満足でした。この搗き立ての餅は格別です。最初から最後まで水で返すという事をほとんどせずに搗きあげるので、粘りがありしかも柔らかい。振り上げた杵の先から臼まで、ガムのように伸びるのです。年季の入った男の人でなければ出来ません。2臼搗かれます。もっと搗くこともあるようです。餡子や辛味醤油、大根おろしや納豆、野沢漬けが用意され、土地の清酒「緑川」もサービスです。私は最初は餡子を、次は辛味醤油に大根おろしで頂きました。黄粉は今年はなかったようです。
滞在中一日くらいは晴天になるのですが、今年は雪が絶え間なく降り続きました。しかし年末の雪は気温が高かったようでべたつき、駅の近くでの雪の壁はあまり見られませんでした。それでも降り続く雪に温泉近くでは雪の壁が日に日に高くなり、車は埋もれていきます。やみそうもない雪の中、2日は例年のように川下の大湯まで散策しました。雪体験です。雪は小止みになったり降りしきったり、激しく降る時は眼前の風景も紗の幕に閉ざされて、見えなくなってしまうくらい。雪山での遭難、雪の恐さがほんの少ししのばれます。
このように3日間雪が降り続いているこの地にいると、一方太平洋側は晴天続きである事が信じられない感じがします。TVで箱根駅伝をみているだけでもその違いをはっきり知らされるのですが・・・
雪が降り止まぬ中を3日、駅まで送られて新幹線に乗り込み、長い長いトンネルをくぐって、外に出るとそこはもう雲さえ見当たらないからっとした青空で、太陽が輝いている。ほんとうにそれまでが夢であったのでは思えるほど。またはどこか外国に行ってきたのではないかと思えるほど。
日に日に速くなるスピード、狭くなる地球、こういうことは年々多くなっていくのでしょう。
3日間の内容はこれまでも書いてきましたし、変り映えしないので省略しますが、帰ってから面白い事があったのでそれを書こうと思いましたが、少々長くなりましたので稿をあらためます。では今日はこれまで。

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洞門山問題・第4回説明会

暮れも押し詰まった昨日、説明会が行なわれたにもかかわらず、ほぼ満席に近い人が集まった。
結論から言うと、何も進展のない説明側の回答であった。しかしこの工事がいかに無理であり、無謀であり、不可能に近いものであるかが、問い詰める事によって明らかになった。
4回もやりながらこの状況では、説明会はよくあるようにダミーであり、陰では着々と工事に向けての工作が進められているのではないかという疑問がある。実際その気配もあるという。保全を考え、指導していると言っても役所は信用できない。なぜならそこには人間の顔が見えてこないことが多いからだ。個人としての信念も心ももたず(持てないようになっている)、組織、仕組みの中で動かざるを得ないからである。そこにあるのは法律や理論や数字であり、それらに辻褄が合えば、許可が下り、工事を認めることにもなる。賄賂はないにしても、法をうまく使えば、理念も正義も感情も押しつぶすことができる。
法といえば、この申請の工事区画が999平米であることも、その一つである。
即ち、1000�からは、4メートル道路に隣接していなければ出来ないのだそうだ。私はやっとそれを今回知った。しかしここはいずれも2メートル前後の道で、いちばん狭いところは1.84メートルである。
今でさえ高校の登校時間に出会うものなら、人間でもすれ違うことが困難な道路を、工事のトラックやダンプが、歩行者を気遣いながらどうして往来できるだろう。
しかもそういう狭い道路が合流するところから踏み切りに入るのだが、その幅は2.55メートルである。(これら数字はすべて説明者側の提示したもの)車はすべてここを通過しなくては自動車道路には出られない。しかもこの踏み切りは、横須賀線なので結構列車の通過が多く、人でさえ上下線が通過するときなどは遮断機が上がるのにいらいらするのであるが、そういう現地の事情はまったく説明書には反映されていない。
即ち今回の説明も現実に即したものではなく、図面上、計算上のもので、そこには実際に工事を起こそうとする熱意もなく、周辺住民への誠意もないものであったが、それは事業主もまた請け負う工事主もはっきりしてないということが大きな原因であった。不備を突かれ詳細を訊ねられれば、工事業者でなければわからないと逃げてしまうからである。といってその事業者が出てくるわけではない。
今回は、樹木を伐採して崖の8メートルを崩して出るその土砂や樹木の搬出車両やその量やかかる日数についてが主だったが、それはこちら側の専門家による計算と大きく違っていた(1:3)。
細かいことは書けないが、たとえば説明では土砂の運び出しに61日、伐採したものは20日と計算し、全体で4ヶ月としていたが、こちらの計算では3倍の12ヶ月はかかるはず。その中間を取ったとしても大変な工事である(これは搬出だけの計算)こととは間違いない。
しかもここは前述したように、幅2メートル前後の細い道、しかも一方はJRのホームに隣接した道(この駅で乗降する高校生の通学路、また幼稚園児、小学生、また大人の通勤路でもある)、の2本に挟まれた屏風のような緑地である。その頭を8メートルも切り崩そうとするのであるから、土台無理なのである。トラックも2トントラックしか入れないが、それを3トントラックとして使うのだという。しかし樹木伐採の重機もその2トントラックで運びこむもので、大木をいかに切ることができるか。
また土砂の運び込む先も、市内の一ヶ所と同時に小田原だというが、その往復の交通事情も考えていない。また樹木の根っこは産業廃棄物であり、それはまた別のところを探す必要ありなど、様々な問題や疑問点、JR線と隣接していることから、それへの配慮も必要であることなど、様々な点から工事の無理を指摘されながらも、結局は、それらを把握したうえで何が何でも「ご理解、ご協力のほどお願い申し上げます」でしかないのである。
こちらこそ、ここのこの辺に残った最後の砦、この街の玄関しての緑は守りたいという気持、そして周辺の住民の暮らしや命にとっても、その工事がいかに無理で無謀であるかを考え、何とか「ご理解、ご協力をお願いしたい」と、こちらも言いたいのですと、その言葉を逆に返して、会合は終ることになりました。
私の今年のブログはこれで終ります。国内でも景気の落ち込みから派遣労働者の問題、様々な不祥事、生活事態が危うくなってきて暗い気持ちになってきます。中東もまた戦闘状況となり、平和もなかなか望めず、これからどうしたらよいのだろうと考えさせられてしまいます。といいながら結局は何もしない体たらく。今年もいつものように雪国に行って参ります。
これをお読みくださりありがとうございました。来年もよろしくお願いします。皆様、どうか良いお年を!

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民藝公演『海霧』

今年の一字漢字は、「変」だという。
変化、変動の年と言うことだが、年末にかけて景気も社会的現象も厳しさを増し、暗澹たる気持ちになる。事柄の変化は、徐々に進んでいた時には気がつかず、見過ごしていたものが、ある時急に大きな形で現れてくる。臨界点というのか、ある温度に達すると水が急に氷に、また水蒸気になるように。
今年はそういう年だったのかもしれない、などと思う。
例年のように三越劇場で行なわれる民藝の今年最後の公演『海霧』を観に行った。
原作は、原田康子。ある年齢以上の人は、「挽歌」のベストセラーを書いた人として記憶に残っているだろう。その後も地元の札幌在住、北海道に根を張った作家活動をしておられるのだが、あまりにも有名になりすぎて、伝説のようになってしまったようだ。50年前だとのことで、改めて時の速さを感じる。
この作品は、北海道を舞台に作家一家の年代記を主軸にして、開拓と近代化されてい日本の姿をも絡ませた一大叙事詩で、3巻からなる長編を劇化したものである。
これを2時間半あまりで演じようというわけだから、大変である。しかしスピード感のある舞台転換と人物造形の切り込みの上手さ、テンポのよさで、少々骨太だがその流れはよく辿れ面白かった。
脚本は、小池倫代。演出は、丹野郁弓。
物語は、プロローグの明治8年からエピローグの昭和4年までの長期に渡る、作者の血族3代の年代記である。中心になるのは開拓者として夫とともにやってきた祖母さよ(樫山文枝)で、一代で財を築きいた夫(伊藤孝雄)とその娘の長女リツ(中地美佐子)と次女ルイ(桜井明美)、そして最後にリツの娘千鶴(中地の二役)、この女系の3代とそれぞれの夫(みやざこ夏穂・斉藤尊史)、それに信頼にたるアイヌの、主人の補佐役となるモンヌカル夫婦なども含めて、家庭内の歴史と一家の盛衰を見守り続けるのである。
和人があたかもアメリカ大陸を開拓していく歴史にどこか通じるところのある日本の北海道開拓の歴史、それは果敢な男たちの陰にある女たちによって支えられていたのだと感じられる女三代の物語であったが、長女リツが男言葉を使い、男のように振る舞い、男のように勇敢で真っ直ぐな性格で早く死んでしまうそれは、家督制度などの時代の悲劇でもありまた滑稽でもあり、それらの流れに時代もまた感じられるドラマであった。
今朝の新聞の「声」欄に、「アイヌを学び、自然を守りたい」という若い人からの投書があり、「北海道では北方領土返還を求める看板を眼にしますが、本来はアイヌに返される土地だと考える人は少ないでしょう」とあって、和人の侵略は自然破壊そのもので、アイヌとともに生きる神を殺すものだったととらえ、北海道に住むものとしての最低限の義務は、彼らの歴史と精神を学び、彼らが守りともに暮らしてきた「自然=カムイ」を自分も守り生きていくことだと思う、という頼もしい文章を読んで嬉しくなった。

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「オペラ・アリアと第九」を聴きに行く

冬至の昨日から生暖かい風が吹いて、冬らしくない陽気の今日だが、先週の水曜日は一日冷たい雨であった。
その日、例年のように「第九」を聴きに出かけた。今回がラストコンサートだということである。
パンフによると、コール・フリーデが第九を歌い続けて31年になるということであった。その記念すべきコンサート、友人のTさんが最近の世話役の一人なので、このところいつもその楽しみを分かたれている私としても、やはりある感慨があった。しかし年末に第九を歌うことはないにしても、合唱団としての活動は続けられ、定期的な演奏会はつづくという。長い間、ご苦労様でした! そしてありがとう! なお今後も充実した活動を、と祈りながら心をこめて聴きました。
第1部は、特に今回はソリストに日本有数のオペラ歌手をそろえての、馴染みのあるオペラ・アリア。
   モーツアルト 歌劇『フィガロの結婚』より
      谷口睦美(メゾ・ソプラノ)  「恋とはどんなものかしら」(ケルビーノ)
      福島明也(バリトン)     「ため息をついている間に」(伯爵)
   モーツアルト 歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』より
       樋口達哉(テノール)   「恋のいぶきは」(フェランド)
       佐々木典子(ソプラノ)  「岩のように動かずに」(フィオルディージ)
第2部  ベートーベン 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付」
第九は、年末恒例になってしまった感がある。この時期歌われることが日本では特に多い、と聞いたことがある。
今町に出ると、ジングルベルがあちこちから聞こえ来て、うるさいほどである。皆がクリスチャンでもないのにと、商業主義に踊らされている事に腹立たしいような、又それにお尻を叩かれて働かせられている人たちを見ると、気の毒な感じさえする。しかし、この第九が多くの人に歌われることは、しかも普通の人たちによる合唱があちこちに見られることは、いいことではないかと私は思う。
なぜならこれにこめたベートーベンの思い、そして合唱として歌われるシラーの詩の趣旨が、今こそ広く歌われるべきで、それを日本人の名もない市民たちの口から歌われることは、意義あることだと思うからである。弱小国日本が、世界に向けて発信できる事は、このシラーの詩、又ベートーベンの曲にこめられた祈りしかないのではないかと、これを聴きながらしみじみと思ったのである。
その詩のさわりの部分だけをほんの少し、誰でもご存知でしょうが書き上げてみて、結びといたします。
 
  [歓喜の歌]
         「  (略)
          歓喜、美しき神々の火花、
          楽園の乙女!
            (略)
          汝がやさしき羽交(はがい)の下に憩わば、
          すべての人々は兄弟(はらから)となる。
             (略)
          生きとし生ける者は、歓喜を
          自然の乳房より飲む。
          
             (略)
          百万の人々よ、わが抱擁を受けよ!
          この接吻(くちづけ)を、全世界に!
             (略)                」

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