『源氏物語』 「蛍」の巻

前回、この巻のことについて書いたが、今この物語を原文で通読しはじめている。昔あちこちを虫食いのように読んではいたもの、一気に読み通したことはなかった。いまはその千年紀ということなので、これを機会に自分の目で読み通してみようと思い立ったのである。じっくりとではなく、まったくの走り読みなのだが、(そしてややこしい部分になると、現代語訳で援助してもらいながら[谷崎源氏])読み行くほどに、その見事さに感嘆すると同時にかつてとは違ったいろいろな思いが立ち昇って来るのを感じる。
それらを時々、ここにも書いてみることにしよう。
さて、その「蛍」の巻であるが、ここには紫式部の文学論というか物語論が語られている事で有名である。すなわち、「日本紀などは、ただ、片そばぞかし。これら(=物語)にこそ、道々しく、くはしき事はあらめ」、訳は「日本歴史(大体は六国史を指す)などは、ほんの一部に過ぎない。すなわち社会の表面の記事に過ぎない。世の中の真相は、個々の人間の詳細を描いた物語の方にこそ存在するのだ」という物語論を源氏の口を通して述べているのである。
ああ、それはこの蛍の巻だったかと、再認識したのであったが、それは大したことではない。
この大系の中にそれぞれはさまれている12ページほどのリーフレット「月報」の中に興味深い見解や解説があって面白いのであるが、ここではその一つを書き留めておきたい。
日本は漢字をはじめ中国文化によって文化の開眼をしたことは言わずもがな、この平安時代にそれを日本化して、その頂点とも言うような世界に誇れる『源氏』を生み出したわけだが、それを魯迅の弟である周作人が絶賛しているという文章があるという。(中国では日本の文化は自分たちの真似だと考える人多かった時代である)。必ずしもそうではなく、日本には日本の文明があり、特に芸術と生活の方面ではそれが顕著であるとし、「紫式部の源氏物語は十世紀の時に出来上がったのですから、中国で言いますとちょうど宋の太宗の時分で、中国における長編小説の発達までにはなお五百年の隔たりがある」と言っていて、「まさに一つの奇跡と言わざるを得ない」ともいう。これはヨーロッパにおいても同様である(これは私の言葉)。つまり周作人は日本文化の独創力を認め、その典型を源氏物語に発見しているのだとし、「彼は一九の膝栗毛や三馬の浮世床なども日本人の創作したあそびだと言っており。かなり深く日本文学を究めたようである。」と、これを書いているのは、肥後和男(肩書きがないがたぶん源氏の研究者、大学教授)という方である。「源氏物語と山岸君」のタイトルで。(源氏の大家山岸博士を君付けをするのだからもっと偉い先生だろう)
今、日本のアニメ、漫画が世界的な広がりをみせているのも、この流れの一つではないかと、これを書きながらふと思った。
では、今日はこの辺で。

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夏至の夜の蛍の宴

日がいちばん長い夏至、21日は台峯歩きの日であったが生憎雨であった。しかし夕方からは上がって蛍の観察会は催されるというので出かけた。
風もなく穏やかで、条件としては悪くはない。参加者は15人と子ども2人。雨具と十分な足元の準備をして出かける。その頃から霧雨よりももっと細かな、まさに霧のような雨も降ったりしたが、傘を差すこともなく行程を終えた。
蛍が光り始めるのはほぼ7時半ごろ、それから30分ぐらいでクライマックス、それから30分ぐらい経つと終ってしまう、まさにほぼ一時間ほどの、命の饗宴である。ここでの観察は3回目なので、最初のつよい感動は薄れたかもしれないが、最初の瞬きを捉えた時の心の弾みはなくなることがない。暗闇に中でじっと待機しながら目をこらしていると、どこかでピカリと光り始める。するとまもなくあちこちから同じような光が明滅し始める。時にはスウッと流れるように飛んだり、こちらにぐんぐん近づいてきたり、時には空の星かと思うとそうではなく空に飛び立った蛍であったり・・・。
この蛍に出合うことで、やっと夏が迎えられると感じられる、という常連の人もいた。まさに過ごしにくいこの国の夏を迎えるための蛍はエネルギー、清涼剤かも知れない。これが味わえるのは幸福な事である。
今年は、まだ日が長いので入口辺りではホトトギスが、また行き帰りにはアマガエルの声が迎えてくれた。アマガエルの声のなんとけたたましい事! 赤貝の殻を激しくすり合わせるような声。途中で聞こえた、ちょっと不気味な神秘的な声はガビチョウということだが?
まだ蛍が光り始めないころ、ハンゲショウの香りをかぎに行きましょうと行ったのだが、朝からの雨で香が流されあまり感じられなかった。
今は源氏蛍の時期、しかし今年は平家の方もかなり光り始めていて、例年より少し早いとの事。来週になるともう源氏はあまりいなくなり、ほぼ平家だけになる。人間の歴史と反対なのだなあ・・・。
源氏と平家は点滅の長さ方が違う。源氏はゆっくりしていて、平家は早い。池の奥の方では平家が多くいて、歩く足元にまで光っている。踏み潰しそうだ。
そこでこの山道にこの谷戸の整備にあったって仮説道路(工事のための)が通る計画になっているという。そうなるとここに多く生息している平家蛍が危ぶまれるという。それでその平家を上流に移すことも考えねばならないなど、問題も生じているのである。ああ、平家はやはり行く末がおぼつかないなあ。
『源氏物語』に「蛍」という巻がある。その頃から、私たちはこの五月雨の頃の蛍に美を見出し、愛してきた。中国では「蛍の光」で学問をしたようだが、こちらではそうではなく恋愛の小道具として使われる。何となく彼我の文学の違いのようなものを感じる。
「蛍」の巻では、もう源氏は36歳の中年、はかなく死んだ夕顔の忘れ形見(自分の子ではなくライバルの娘)を探し出して(親友でいてライバルの実父には隠して)養女にして、紫の上ほか大勢の女性たちに囲まれながら、その若い玉鬘にまで懸想している。その上に、(源氏の嫌なところであるが)彼女に言い寄っている公達の心を一層かき乱そうと)今のような雨模様の夕方、こっそり蛍を袖の中にたくさん隠して、その男が玉鬘の部屋を訪れた時、その几帳のなかに一斉に放ち、その顔を露わにさせる(その頃のお姫様は今のイスラムの女性と同様男性に顔を見せてははしたないのである)。
しかし蛍は、自分以外のものを明るく照らし出すほどの明るさは持っていないのではないだろうか。
とにかく今年も蛍に会えた幸いを感じながら、またもや霧のような雨の中を帰ってきたのである。

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対談・鼎談「湯浅誠・小森陽一・内橋克人」を聴きに行く

「人間らしく生きられる社会を!」がテーマ。前回は講師アーサービナード・井上ひさしさんの対談だったが、ぼんやりしているうちに申し込みが満席になって聴けなかったので、今回はすぐに申し込みをしておいた。鎌倉・九条の会主催。
それでも30分前の開場少し前についてみると、もうかなりの行列ができていた。大ホール(1500人)も開演10分前には一階席は満席、2階席も始まる頃にはほとんどが埋まったようだった。杖を突いたご婦人もいた。係りの人が何人も飛び回って入場の整理をし、入ってからも一階席のたった一つ二つの空席でも連絡しあって、座らせていた。粛々として(政治家が好きな語句)いるが、熱気のこもった会場の雰囲気。それだけいまの自分たちの暮らしやこの国の将来について不安を覚える人が多いということであろう。会場には呼びかけ人の一人、なだいなださんの姿、また井上ひさしさんも舞台にマイクを持って来たりして、裏方を務めておられたようである。
司会役の小森さんは電車の事故で15分遅刻。もちろんこれは内橋さんが前座(と言っても肝心なことを先ず喋って、ロスにはならなかった)。まもなく小森さんが姿を見せ、しかしさらりと言ってのけたのは、これも今の一つの憂うべき社会現象である人身事故であったと・・・。今日の新聞にもまた人身事故のニュースが報じられていた。
わが身やこの国の行く手に不安を持つものの一人として、聴くに値する事が多くあったが、それをここに述べる力はないので、簡単に要点のみを書いてメモ代わりにしたい。
もらったプログラムの簡単な内容紹介を先ず。
 内橋克人: F食料 Eエネルギー Cケア を自給し、そこに雇用を作り出す社会を!
 
 湯浅誠:  反貧困~貧困スパイラルを止めよう~
 
 小森陽一: 「格差」と貧困こそが、戦争を欲望する社会の最大の原因です。
この表題を見れば、大体のことは想像できると思うので、詳しくは書かないが、注意を引いたところだけを書いておきます。
*文学が専門で、最近は専ら漱石を読み解いている小森さんの言葉。その漱石の時代に類似する「100年に一度」の今は危機の時代に直面しているという事。漱石の「それから」をちょっと口にしたが、情況は違うが、あの時期である。
*経済評論家の内橋さんのいう、人が人らしく生きるための条件。
     ①安全性(経済的、物理的、精神的に安全に生きられること)
     ②生き方の選択の自由
     ③隣人との共生と価値観の共有(①②は自分ひとりのものとしては成り立たず、互いにそういう生き方ができなければならない)。それゆえ社会的排除(人種や差別意識による)があってはならない。.
     ④以上のことが可能であり続ける町、社会。
これらは当たり前で、平凡であるかもしれないが、実は今これらが壊れつつあると、小森さんも内橋さんも言うのである。それはなぜか、
それは生産条件と、生存条件とが、矛盾し始めたからである・・・と。すなわち戦後、日本は生産性を上げれば、生存条件もよくなると信じて邁進してきた。(今日の途上国も同様)。しかしいまや対立する時代になった。すなわち生産を上げるにつれて、生存が危う状態になっていく。(公害問題、派遣労働の問題ーここで湯浅さんが関わっている派遣や貧困問題につながる)
*なぜこういう状態になったかというと、それは市場原理で動くグローバル化である。小泉さんが打ち出した構造改革である。自動車産業をはじめとする輸出依存型の産業である。それによる中央と地方の格差が大きくなり、またこれにより働いても働いても暮らしが楽にならないのは、(経済学に疎いのでなぜかよく分らないが内橋さんの計算に寄れば)労働者の所得の5パーセントが流出してしまうのだという。とにかく利益を得るのは上から10社が30パーセント、上から30社が二分の一を占め、後20パーセントを中小が分け合っている計算になる。
今のアメリカで発生した金融破たんによる大地震が、なぜ日本に大きな津波をもたらしているかというのもそれによるからで、日本企業の自立的回復力がなくなっているからであるとする。おなじ影響を受けるとしてもヨーロッパはそれほどではない。金融では影響されても企業そのものは、日本ほどアメリカのグローバル化に巻き込まれていないからであると。
     
アメリカは震源地であるから被害は当然としても、オバマ大統領によって大きく変ろうとしている。それなのに、日本は旧態依然のアメリカのやり方にすがっているのだとも。
*大学生だった湯浅さんは大学が近くだったため日比谷公園によく来ていて、野宿している人をよく見かけたが、95年頃100人ぐらいだったのが急に600人ほどに増えて、この社会には何か大変な事が起こっているのではないだろうか、と思い始めたのがきっかけだったという。それで労働組合と一緒に始めたのだが、いろいろな事が見えてきたという。それを続けることによって見えてきたもの、気づいたことなどは、著書もあることだしここでは述べませんが、内橋さんと3回りも違う若い湯浅さんを、頼もしく思い、3点にわたって褒め上げて、湯浅さんは恐縮。
その目的は、彼らでも働ける職場のある社会を作ること。ストライクゾーンの狭い社会(市場経済主義、国際競争に勝ち抜いたりするためには競争社会となり、優秀な者しか働けない)をひろげること。そのための社会的セーフティネットを作ることだという。
 
*箱の中に3つの風船があり、一つは職場、一つは家庭というセーフティネットだとすると、第三の社会的なそれを制度的に作ることだと湯浅さん。
これまで日本はそういうものがなかった。福祉などという言葉はあるが、一度も日本は福祉国家であったことはないと内橋さん。
*この不況、破局もまだ序の口だそうです。
また、人類の歴史を顧み、いかにしてこの情況で戦争を回避できるか、これからが正念場であるようです。今テロ問題や北朝鮮などを口実にして武器輸出三原則がなし崩しにされつつある。その上憲法九条第二項をはずして、自衛隊が戦争できるようにされつつあると小森さん。
またまた長くなりましたので、この辺で止めますが最後に、内橋さんの言葉を揚げて終ることにします。
政治家のトリック(数字のトリック、個人老人の金融資産が1480兆円もあるので、それを放出させるというが、それは事業資産もローンなど借金も入り、決して個人の資産ではないなど)やレトリック(「努力をすれば報われる社会」という言い方)に騙されないで(マスコミも同様である)、それを見抜く力を養う事(これは難しく直感で行くしかありませんね)、利益追求のための労働ではなく、自分たちの生活に必要なものとしての労働をとりもどし、日本人特有の熱狂主義(熱しやすく冷めやすい)、頂点増長主義、異議申し立てのできない、などにとらわれないように・・・と。
あー疲れた!
 

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朽木祥『風の靴』を読む。

朽木 祥さま
最新著書『風の靴』(講談社)を拝読しました。
主人公の海生(かいせい)少年になったような気持ちで、ワクワクしながら読みました。
わたしが中学校教師だったら、夏休みの課題図書ぴか一のものとして推薦したでしょう。いえ、そんなことより私自身がとても素晴らしい体験をしたような感じで楽しんだのでした。
物語は、中一の主人公、その年齢特有のもやもやした悩みと悲しみを抱えた海生が愛犬と、親友とひょんなことから従いてきてしまったその妹、3人と1匹が、ヨットで家出をするというものです。
これまでの『かはたれ』、『たそかれ』など、キツネや河童など異界の者たちとの交流をファンタジックに描いた作品とはまた違った世界が展開する事に先ず驚かされました。これまでは、どちらかといえば薄明の世界で哀しさがただよってたのに比べ、これは湘南の海が舞台になっているだけに、明るい陽光と海風に溢れていて、健康的で前向きの世界です。それでもなおこれまでのファンタジックで詩的な朽木さんの世界はちゃんと漲っていて、それゆえ解説にもありましたが、本格的でしっかりした、それでいて素晴らしくファンタジックな冒険物語として新しい流れをもたらすのではないかと(私はその方面には詳しくありませんが)予感します。急逝したおじいちゃんの愛用のヨットという絡みもあって、おじいちゃんの言葉や教え、人生への深い考察も自然に思い出されることもあって、体験による少年の成長物語にもなっています。
私も海や船への憧れがあります。特にヨットはやはり船の中では特別ですね。『太平洋一人ぽっち』の堀江さんがヒーローになったのも誰しもそういう気持を持っているのではないでしょうか。私も江ノ島のヨットハーバーを見るたびに、それらを操る人たちはどういう人だろうと思っていました。もし時代や環境によって、それに関わるチャンスがあったら、きっと嵌ってしまうに違いありません。もちろん不器用で、運動神経も鈍いので、ただ乗せてもらうしかないにしても・・・。
ところが朽木さんはそんなセーリングを仲間たちとなさった事があり、船舶免許までもっていらっしゃるのだと知り、それゆえにこの物語も細部まできちんとリアリズムで書き込まれていることに納得し感心しました。ヨットの種類から始まって構造や名称、帆やロープの結び方など簡単なヨット入門書的な面もあって、大いに目を見開かせられ勉強にもなりました。
そういうわけでぐんぐん引き込まれました。
地図があると同様、海図があったのだと思い当ります。いつもは陸地からしか海を眺めないのに、海からの眺めもあることに思い至ります。ヨットの上から湘南の海と光を存分に感じました。筋も構成も、人物の性格やその配置もピタリと決まり、犬一匹(いえ2匹?)というのも楽しい。家出から始まって隠れた湾の存在や宝探し、なぞの人物など冒険の定石はちゃんとあって、大冒険ではなく身近なところであることが、かえって真実味があり、どんな些細な事でもまた日常でも冒険は成り立つという事でもあります。そしてサバイバル体験も。見慣れたところを見直す感じにもなりました。
おじいちゃんの遺品、総マホガニー作りのクラシックの小さいヨット、ディンギーは、おじいさんと同様素敵ですね。キャビンのあるヨット、アイオロス号も楽しそう! でもおじいちゃんはカッコいいだけに、ちょっと若すぎる死であるように思われるのも、私がその歳に近いように思えるからでしょう。でも急逝だし、それは物語の運びとしては仕方ない事でしょう。
さて干潟で皆でするキャンプファイアの終りの花火(これも既成のものではなく、ありあわせの物で作っている)の場面は、ここでは一つのクライマックスだと思えますが、その描写がとても生き生きとして素晴らしかったです。またそれまで静かな波のようにバックで物語を支えていた挿絵もここでは花火と水しぶき、子どもたちの躍動を思いっきり表現していて効果的、良かったです。
そのほかいろいろ感じた事もありますが、長くなりますのでこの辺で止めます。
最後に題の『風の靴』も、裸足(はだし)の風に船の靴を履かせる、を意味しているようですが、この着想も面白いですね。
この著書も羽根の生えた靴をはかせられ、順風満帆の航海ができますようにと祈りながら、お礼まで。

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モーツアルトのミサ曲と貴志康一生誕100年記念

4月24日、若い友人の属している合唱団コール・ミレニアムの第7回定期演奏会に出かけた。
太田区民会館ホール、アプリコ大ホール。JR蒲田駅の発着音が映画のテーマソング蒲田行進曲である事は知っていたが、このアプリコ辺が撮影所跡であることは知らなかった。
それと同様に、貴志康一という作曲家、というより演奏家・指揮者でもあったという天才的な音楽家の名前も知らなかった。生誕100年記念ということで、その「日本歌曲集」から合唱曲に編曲して演奏された。曲が知られていないからか、国際女優として名高い島田陽子さんをナレションとして迎え、総括指揮者である小松一彦氏とのトークをもまじえ、楽しく始まった。プログラムに掲載の貴志康一の写真を見ると頗るノーブルな貴公子然とした顔をしていて素敵である。帰って調べてみると大変な人であることが分った。
インターネットで見れば分るので詳しくは書かないが、1909年生まれ、お公家さんの家系で成功した裕福な大商家の出身、神戸でミハアエル・ウェクスラーに直接師事。3度もヨーロッパ留学、その中でもベルリン滞在時には作曲家・指揮者として活躍、自作の作品をベルリン・フイルハーモニ―管弦楽団と録音したりフルトヴェングラーとも親交あり、ストラディヴァりウスを購入など。1936年には3回日本でベートーベンの第九を指揮して、そのうち一回は新交響楽団(現NHK交響楽団)という目覚しい活躍ぶりで、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞の後の晩餐会の時に彼の曲が流れたことは有名であるとのことだが、不肖私は全く知らなかった。
これほどの才能があり国際的にも大活躍した人であるのにあまり知られることがなかったのは、夭折したからであった。なんと心臓麻痺のため28歳いの若さだったという!西洋音楽の草分けの頃でもあり、才能がありすぎたために期待され活躍しすぎたからでしょうか。彼が生きていたら音楽地図が変っていただろうとも言われているようだ。
大阪でもこの生誕100年記念コンサートがおなじ小松一彦氏の指揮で大阪フイルによる演奏会が行なわれようである。ちなみになくなったのは1937年3月31日である。
ちょっと脇道に寄りすぎたが、合唱として歌われたのは
 *「行脚僧」 「かもめ」 「花売娘」 「風雅小唄」 
いずれも歌曲の中に東洋的な味わいをもつもので、今聴いても新鮮なものを感じた。
次に
 *ワーグナーの歌劇「ローエングリン」から馴染みのある婚礼の合唱。
後休憩。いよいよメインのモーツアルト
 *ミサ曲ハ短調 KV427
これはモーツアルトが父親の反対にもかかわらずウイーンでコンスタンツェと結婚して、何とか父に新妻を認めさせようとして作曲し、これを故郷のザルツベルグの教会で初演をしたという記念すべき曲。
スケールが大きく「大ミサ曲」の愛称を持つのも、新妻がソプラノ歌手であった事から、ソプラノのアリアを多く登場させ目立たせようとしているだけではなく、対立していた司教への反抗心もあって、壮大なものになっている。これを合唱団として歌い上げるのも大変な事であろうと友の努力を思い拍手である。  
 
西洋の夭折の天才のモーツアルトに対する、規模は小さいながら東洋の夭折の天才ともいえる貴志康一を、ともに楽しむことができた夜であった。

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台峯歩き 2

前回、今は昆虫がたくさん出始める時期と書きましたが、一昨日の新聞のコラムに蜜蜂が大量にいなくなったという記事があり、受粉を頼っている果樹園などが被害を受けているという。これは以前にもTVでアメリカの例として見たことがあり、『ハチはなぜ大量死したか』という本が出ているくらいで、ハチをはじめ人間がいかに昆虫たちから恩恵を受けているかということである。もちろん恐怖も被害も受けるのであるが、とにかく人間などは、文明などと言ってみても地球の自然界の中ではちいさな存在であると思い当らねばならないだろう。私がゴキブリを見てつい声をあげてしまうのも、そんな人類の畏怖心の遺伝子によるのかもしれない。
このようなことを書くのも、今回の歩きでは、台峯に住んでいるニホンミツバチがいなかったのである。谷戸に下りる坂道の洞にすんでいたところにも、また老人の畑と呼ばれている見晴らしのいい場所にあがる道筋の木の洞にもまったくその気配がなかった。特に後者は覗き込むとクモの糸のようなものがただよっていた。まだ冬眠中なのか、それとも・・・・
しかし嬉しいこともあった。第一の田んぼはまだ健在で、そこでは蛙がたくさん鳴いていて(今はシュレーゲル蛙である)、水面にはシオヤトンボ(シオカラトンボとは別種、5月がピークとのこと)が何匹も飛んでいた。この辺りでここにしかいないとのこと。向かいの林の高い樹の天辺に鷺が一羽。チュウサギということであった。田んぼの蛙を狙っているのだろうか。いつまでも絵に描いたように動かない。田植えの前の田んぼの畦にはキツネノボタン,オニタビラコ。ハルジオン、水の中にはタガラシ(キツネノボタンに似ている)。
平安時代の十二単の重ねなどに見られるような、緑色でも微妙な違いが見られるのは、この芽吹きの若葉の頃で、その繊細さ、しかしうつろいやすい美の感受性は、これらの自然によっても育まれるのであろう。
白っぽい緑の新芽はコナラ、鮮やかな緑はシデやミズキ、黄色っぽい緑はクヌギやエノキなどと教わってもなかなか覚えられないのであった。新芽の色はもっと微妙で赤みがかったりして、誰もが覚えがあると思いますが、柔らかい毛に覆われビロードのようにすべすべした新芽を持つのはシロダモだとか、近くの木を手に取りながら観察などしているとなかなか先には進めません。
第二の田んぼは、悲観的な状況です。隣まで宅地j造成が押し寄せていて、米つくりをこれからも頑張っていくらしいと、この前に来たとき畦の工事をしていた作業員が言っていましたが。
ここから自動車道路に上がって歩いていきますが、途中にあった工事会社の看板はなくなっていました。テニスコートという名による開発が、食い止められたからです。さてこれからがいよいよ台峯に入り谷戸に下りていくわけです。これがどのような形で残っていくかが問題ですが。
池にも少し前までは小さな魚がいたらしいですが、ブラックバスが誰かが放ったらしく、いなくなったそうで、また今年は青い藻がたくさんはびこって水質が悪くなったといわれます。しかし湿地の中の水溜りにちょうどオタマジャクシが孵っているといわれ、靴を汚しながら(この谷戸に入るにはほんとうは長靴がいいのです)案内してもらいました。 いました!、いました! 尾の先まで1センチくらいの小さなお玉がたくさん泳いでいました。赤蛙が終って、今はヒキガエルだそうで、これからはシュレーゲル蛙だとのこと。その近くにもう一つ水溜まりがあり、それは理事をはじめ有志の人たちが作ったのです。そこにもまた卵を産み付けてくれるでしょう。
来月になると、もうすっかり新緑に染まっている事でしょう。では今回はこれまで。

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台峯歩き(初夏へ向けて)1

昨日の日曜日は晴れて風もなく、気持の良い行楽日和だった。
弾む心で台峯歩きに参加した。初めての人も多く、全員で24~5人の賑やかさだった。
初参加が多いことから台峯の歴史について簡単な説明があった。私も改めて整理してみるためここに書き記してみることにする。
33年前にこの谷戸を切り崩して埋め立て、大々的に宅地化するという話が、その大部分を取得していた野村不動産からの申請の話が持ち上がり、住民の反対の声が上がる。
しかしその話はなかなか解決策が見つからず、11年前にやっと世の中の情勢もあってトラスト運動が起こり、それに付随した形でこの歩く会も始まったということ。
そして5年前、やっとそのトラスト運動の資金と行政側の出費金で、買い取るという形で保存という事に決まったのである。今会員は400人(全盛期は600人)、1500万円ぐらいの資金があるとのこと。しかし約9万坪ほどのこの谷戸を整備したり保存への体制作りには8年~10年、60億円ぐらいはかかるそうです。ということは理事の人たちもその行く末を見届けられるかどうか、ということであり会員の若返りや子どもたちへの期待というところだろう。
先日この公会堂では市長を囲んでのこの開発に関しての「ふれあいトーク」が開かれて、その席でここでも取り上げたテニスコート作りの開発は正式に取りやめて緑地として買い上げる事、洞門山については開発いったん取りやめ、前向きに考え中との市長の言葉が伝えられた。
この谷戸の基本計画もでき、行政側からの整備も少しずつ進んでいて、ここの自然の写真集も出版されたことからだんだん人々の耳目を集め訪れる人も多くなってきたが、同時に様々な問題が出てくるわけですが、長くなるのでここでは述べないことにします。
さて、桜が散り(八重桜や桃がきれい)、木々が一斉に芽吹く季節となりました。今年は気候が激変し、五月晴れの前倒しではないかと思われるような晴天が続いたりしましたが、昔から桜が散ると気候が安定する言われ、それを農作業の取り掛かりにしたのだそうです。すなわちそこからが初夏だそうです。
そしてこの時期に昆虫が出てくるのだそうで、虫の観察に適しているとのこと。前日に雨などがあるとダメだが、そうではない穏やかな今日は最適だと。しかしあまり虫には出会わなかったのでよかった。
植物では、つつじ類が咲き始めるこの時期、春の野の花のピークで連休になるとイネ科だそうで、新芽とともにクヌギやコナラやシデなど常緑樹の地味な花の季節です。まだ少し早いですがシイの花などはの精気と匂いは強烈であることを思い出しました。栗もそうですね。
新芽の柔らかな黄緑色や鮮やかな緑や白みがかった緑などの微妙な若葉の林を眺めながら歩き出しましたが、続きは次回回しにいたします。

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詩集『ぷりん』(椚原好子)を読む

ジャンクション・ハーベストからこの詩集が届いた。さらりとした静かな詩集である。
恥ずかしいことに椚原という姓が、私は読めなかった。「くぬぎはら」さんであった。
最近、介護に携わった人の詩や詩集を目にすることが多くなったが、これも101歳で亡くなった母の介護とその見送りのなかから生まれた作品でー母に捧ぐーという献辞がある。
冒頭の詩にぞくりとした。昔読んだ小川アンナさんの「にょしんらいはい」を思い出した。アンナさんの作品も母の最期を見送った際のことが書かれている。書き出しは「おんなのひとを きよめておくるとき/いちばん かなしみをさそわれるのは/あそこを きれいにしてやるときです/・・・・」である。
いま「おくりびと」が映画にもなり評判になっているが、詩の世界ではこのような事柄はさりげなく生じているような気がする。
では作品の紹介。
   ひゃくさいのでんぶ
  ひふとひふとのあいだにひそむ
  すぎこしさいげつの
  たにくだりおちて
  ひとすじのみちをつくり
  いくすじものみちをつくり
  やがてかーてんによせるどれーぷのごとく
  たるみさがって
  むすこよ
  ひるむでない
  
  おかんもこんなになるのかなぁ
  おれがふくのかなぁ
  って いったね
  はじめてめにする
  ひゃくさいのでんぶ
  わたしをうみおまえをうみ 
  ひそかにいきづくいのちのありどころ
  いのちをつなぐしまつのしどころ
   
  においにたえて
  ふくべし
すべてひらがな表記である。「にょしんらいはい」も同じようなひらがな書きである。
『ぷりん』の全体もほんの少しだけ漢字がまじるものの、ほとんどがひらがなである。自国の人間が自分たちのために作り出したひらがなは、やはり小泉八雲が愛したようなこの国の繊細で思いの深い感情を表すのに適しているのだろうか。
ぞくりとした後に手を合わせたくなるような詩である。  

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初春の台峯歩き

昨日春の嵐が通りすぎ、今日は久しぶりに快晴の穏やかな日です。
このところ雨がち曇りがちの日が多く、菜種梅雨が一ヶ月ぐらい早く訪れたのではないかと言われているようですが、山歩きには恵まれた一日でした。
でも集まった人は少なく、年度替りで忙しいか、またはもっといいところへお出かけでしょうか、総勢でも15人ぐらいでした。少人数なので、のんびりゆっくりと、観察しようということになりました。
自然観察を始めるのには一番いい季節なのだそうです。まだ芽吹きの時期で、花も少なく、それゆえ自然はシンプルで覚えやすく印象にも残る。花も木も種類が多く目に付きやすい春の盛りは、目移りして覚え切れない。鳥にしても一番活発になるバードウイークの時期は、種類が多すぎて大変。この種類も数も少ない時期が、初心者にはいいのだということです。
樹木も早いものだけが芽吹きをし、咲く花も少ないこの時期、野鳥のさえずりと、越冬した蝶を楽しみましょうと言われ、皆で歩き出しました。
道すがら、垣根の下に生えている地味な草ですがヒメカンスゲの花なるものを教えられました。スゲの一種でしょうが、イヌジャラシのようなこげ茶色の穂のようなものに触ると黄色い花粉が飛びます。カヤツリグサと同様育てるのは難しいのだそうです。同じく垣根の下草のニオイヒバ、シダのようですが、葉を触るとヒバの樹のようないい香りが手に残ります。
花は、注意しなければ目に付かない、樹木の花、道端の草の小さな花たちです。
先ず高い木の枝が黄緑色に染まって見えるのがイヌシデの花。キブシの花と似ていますが、キブシはもっとカンザシ状に垂れ下がっています。これはあちこちに見られました。低木では、ヒサカキの花(これも地味で小さな黄色)、独特の匂いがある(ガス漏れの臭い、という芳しくない香り)。オニシバリの緑色の花など、教えられねば気が付きません。憎らしいほどあちこちに生えてくるアオキも雄花の蕾が目立ちます。それらの中でもピンク色で漏斗状の小さな花を下向きにつけるウグイスカグラは、名前と同様印象に残る可愛い花。
道端の花としては、お馴染みのオオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ。田んぼの中などにも生えているタネツケバナ(小さくて白い)、これには蝶がよくやって来るとか。ヒメウズの花も小さくて白い。少なくなったとされるハハコグサ。
樹木では白木蓮の蕾、桃の花、そして大島桜の蕾が大きくふくらみ、5輪ほど咲きだしていました。花は白く、緑の葉とともに咲き出すこの桜は、里桜の母種、成長も早く丈夫で台木となるそうで、葉は桜餅の葉に使うという。なるほど清楚でしっかりした感じで、早い春の陽光を思わせます。
期待された野鳥の囀りはあまり聴かれませんでした。ウグイスは少し前からまだ下手な声で鳴き始めていますが、その他メジロ、シジュウカラ、ヤマガラ(シジュウカラに似ているが、少しゆったりした囀り)。ケン、ケンというかピオ ピオというか、そういう鋭い声を立てたのはアオゲラだそうです。トンビはゆったりと青空を旋回し、2羽が連れ立つように舞っているのは、これから恋の季節になるからだとのことです。もう帰る頃のモズが見えたとのことですが、わたしは見ることが出来ませんでした。
越冬の蝶には少しだけですが遭えました。先ず枯葉色した天狗蝶、緑の草に止まっているので葉っぱに間違えそうですが、鮮やかな黄色をした黄蝶。またカワゲラの成虫とか言う小さな黒い体をした昆虫。
湿地帯の中の水溜りのオタマジャクシは、数が減っていたとか(昨日の雨で相当ぬかるんでいたので有志のみが行く)、盗まれたのではないでしょうか。
周囲の環境としては、先日来問題になっていたテニスコートの件は、市が理解を示して工事中止、会からも基金の中から醵出して買い取る事の交渉が始まったという事ですが、そのほかこの谷戸は至るところ開発の危険に直面しているようで、この地がどういう形で残って行くか思いやられます。

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「はやぶさ」乗車記(つづき2)

昨日のニュースで、九州方面では最後となる寝台特急「はやぶさ」に名残を惜しむ人が大勢集まってきているさまが放映。少しだけ早く行動に移したので、あのような騒ぎに巻き込まれなくて良かった。
2月16日はまだそれほどではなく(横浜から乗車したからかな?)、向かいのホームにカメラを向ける人が数人いただけで、こちらにはカメラマンも又乗車する人もほとんどなかった。17分遅れでやってきた列車を迎えながら私もカメラを向ける。ソロの車両には大きな星印のロゴがついているので、乗り込む前にそれもカメラに収め、急いで乗り込んだ。先頭から3番目である3号車、14番は先頭乗車口に近い方だった。細長いドアが並んでいる。奇数が下段個室、私は偶数なので上段個室である。階段が数段あり、天井が下段室よりも低いはず。左側にベット、窓の下にはゴミいれを下に設置したサイドテーブル、ベッドを椅子に使う場合のテーブルが折り畳みになって右側にある。そのほか鏡、ハンガーフック、水彩画も飾られている。足元のベットの奥には荷物の収納場所、手前には毛布と浴衣、そして肝心のキイ。
こんな風に言葉で言うよりも写真をここで紹介すれば一目瞭然ですね。でも残念ながら私のカメラはデジカメでもなく、又それをパソコンに取り込む方法も知りません。又このB寝台個室の内部についてはインターネットで検索すればいろいろ出てきますし、誰でも見られます。私もこの内部については検索して、プリントアウトして来ました。その再確認でしかなかったいほど同じでした。知りたい方があればそれをご覧ください、ということでこれで描写は終ります。その印刷と自分で撮った写真とを使って、薄いアルバムを作ったところです。近しい人にはこれを嫌でも見せて、話を聞いてもらうことになるでしょう。
室内には今ではほとんど見られなくなった、昔はかならず窓の下に付いていたあの金属性の煙草の吸殻入れがありました。個室だから、今でも煙草が吸えるのかしら?でも煙草の臭いは残っていませんでした。横浜まで切符を買った人は、この部屋に入ってきたのかしら?写真を撮るだけで出て行ったのかしら?そういう人は乗るときは居なかったけど・・・。
ソロはどうも男性ばかりのようでした。マニアが多いのでしょうか。17分遅れた間に、お茶を買っていたのは正解でした。食堂車はかなり前から、ビュッフェも、売店もなくなっていることはネットで知っていましたので弁当は持ち込んでいましたが、飲み物も車内で買う事が難しい感じで、後できいたところ自動販売機も2台あるきりで、朝コーヒーを買おうと思ったところ売り切れだったのです。
朝、徳山から初めて弁当が持ち込まれ、その徳山の「穴子弁当」が美味しいということなので、それを買おうと思っていましたのに、車内放送では車内販売に回ると言いながら来ないので通路で様子を覗っていると弁当を持って通り過ぎる人あり聞いてみると、先頭で販売しているが行列ができて動けない有様という、ではと行ってみると長い行列。列車の中で行列するとは思っていませんでしたが、せめてコーヒーぐらいは飲みたいと私も列の尻尾に付き、幸い穴子弁当も手に入れました。これはなかなか美味しかったです。それも写真に撮りました。
ところが、九州に渡るに際して下関で機関車の付け替えがあり、少しだけ長い停車があるのですが、その時にはきっとカメラマンが殺到すると思い、その殺到のさまをカメラに撮ろうかなと思っていましたら、カメラが壊れてしまい果たされませんでした。
結局私の乗車記の最後は穴子弁当で幕ということになりました。
少し前から細かな雨が降り出していましたが、関門トンネルを抜けて九州に入ると沿線には雪がうっすらと積もっていました。列車はその後も遅れ(関が原辺りで一時停車)が出て結局1時間近く遅れ11時18分(予定は10時10分)に博多に着きました。

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