台峯歩き・稲田と青鷺

このところ気持の良い秋日和が続きます。
昨日は台峯歩きでしたので出かけてきました。田んぼには黄金色の稲が実っている頃なので楽しみです。何日か前、電線に止まって声をあげるモズの姿を見かけ、秋が心の底にすっと入ってくる気がしました。
集まったのは15、6人、初めての人も半数ほどです。今日はイネ科の植物を中心に見て歩きましょう、とKさんがいつものようにカラー写真のプリントを渡してくれます。多くはKさんが最近、この辺りを歩いて実際撮ったものです。写真には撮りにくいものだといいます。それに駐車場とか道路とか、変哲もないところに生えているものですから見かけた人から咎められたり変に思われたりするそうです。きれいな花などは咲かせない雑草ですから。しかしいわゆる雑草ではないというのです。
外国でもハーブなどの、いわゆる野の花、雑草というのには分類されていないとのこと、すなわちれっきとしたイネ科の植物なのです。稲はその典型的なものだと言えるでしょう。
そのことからも判るように、イネ科の植物は、人間と深い関係があるのだそうです。人が畑を作ると、必ず生えてくるのがイネ科植物であり、いなくなると生えなくなり、深い山の中には無いそうで、人間に一番近い植物だとのことです。麦や稗、粟など五穀の多くがイネ科であり、わたしたちの生存には欠かせないもの。そう言われてみて、私も食料以外のイネ科の植物たちを、雑草の中でも強かに蔓延る厄介ものとばかり思っていたのに気づきました。スズメもまた他の鳥たちも、この穂を啄ばんで食料にするのです。またどんなイネ科のものが生えているかによって、その土地がどういう風に使われているか、そこの環境もわかるという。こう聞くとイネ科の者たちに親しみが湧いてきました。いわんやその名前が分かるとしたらいっそう・・・。
さて、それで資料を手に歩き出しました。観察したのは、代表的な雑草(もちろん他の雑草とは違うと知った上で)のオヒシバ、メヒシバ(3本ほどの線香花火のような穂を持ったどこにでもある、地面に広がるようにして生える。名前で分かるが前者は太く、後者は小さい)、これは誰でも知っている猫じゃらし(エノコログサ)、これもキンエノコロ、アキノエノコロなどある。煙突掃除のブラシのような強い穂を持つチカラシバ、カゼグサというのは、名前通り風にすぐ揺らぐような繊細な穂を持っている。チヂミザサ(葉っぱに縮み皺がある)、イヌビエ、ノガリヤス、サヤズカグサ、コブナグサなどいろいろ、これ以上足を踏み入れると何でもですが奥が深いので、入口のこの辺で終っておきます。
田んぼは、2箇所とも稲穂がそよいでいました。第一の、広い方は今稲刈りの最中らしく、半分ほどが刈り取られていました。その上をウスバキトンボが飛びかっています。
第二の田んぼも、少し日当たりが悪いので遅れていましたが、まもなく稲刈りのようです。でもここが何時まで持つかです。ぎりぎりまで宅地開発が迫っているからです。
実は、洞門山の問題も、まだ解決していません。開発業者もしぶとく、2区画だけは奥の方で住宅地に近い事もあって、こちらも妥協せざるをえないかと思っているようですが、後3区画、それはかなり切り崩さねばならない大きな工事になるようですが、その施工許可をシルバーウイーク前に、急遽取ったとか取らないとか、市長選挙も迫っているので、それからどうなるか、まだ未解決だという事です。
そのほか鳥としては、空を舞うノスリを見ることが出来ました。トビとどう違うか、それもKさんの解説と、3脚ごと抱えて持ち運んでくれる望遠鏡が無ければ私たちには分かりません。また谷戸の池では、青鷺を望遠鏡で、大きくありありと眺められ感動です。昔の人は鶴と間違えたというのも道理、ツルのように大きく、首をぐいと上げて、堂々としていました。
イネ科の植物だけではやはり彩が無くて淋しいのですが、いわゆる老人の畑では、紫色の小さな花を咲かせているヤマハッカ、またシオガマ、谷戸の湿地のツリフネソウ群落が目を楽しませてくれました。さて、先月のこの辺の松虫の声が、チンチロで終っていたということに対して、その後にまたここを訪れた時、確かにチンチロリンと鳴きましたという報告がありました。やはり虫も、鳴き始めよりだんだん上達していくのでしょう。

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公開講座「冷泉家の歴史と文化」

源氏物語の世界に浸っているこの折、このような特別講座が開催されるとのことを知り早速申し込んだ。
平安時代の和歌の家、俊成、定家を祖として綿々と続く(もちろん更にその祖は藤原道長である)王朝の和歌守の家系、文化を守り続けてきた家である冷泉家のことは、新聞などで報じられ、すでに名高いのだが、その実態はどういうものであるのか、西欧で言えば由緒ある古城を見学させてもらえるような感じで聴講した。
近年になってやっとその重要性が国にも認められて学術調査も始まり、財団法人となってからは、長い時代を経て守られてきた(倉が5つもあるとのことであった)歌書(8百年の伝統の中で集積されてきた勅撰集、私家集)や歌学書、古記録などを、将来の保存のため調査と平行して「冷泉家時雨亭叢書」全84巻を完成。その完結の記念として新聞社後援で行われたようである。私は和歌は詠まないが、日本の伝統的な詩歌としてそれをないがしろにはできないジャンルであり、その詩的情緒は私の中にも脈々として流れているものであり、詩を書き続けていくにつれ、また歳を重ねていくに従ってこの国の伝統の力をいっそう感じないではいられない。源氏を読み返そうとしたのもそのことがあり、しかもちょうどそういう今であったので、貴重な機会と期待して出かけた。
ここまで書いて、ちょっと緊急の用事ができたので続きは稿を改めます。
念のため冷泉は[れいぜい]と読みます。昨夜は横浜のヒルトンホテルに泊まったが、読めなくてちょっとスペルを書いてくださいと言われたと貴実子さんは笑っていらっしゃいました。ぎっくり腰になっていて、幸い着物の方が腰のサポートには良いようでと・・・この叢書の宣伝のためにも頑張って出ていらっしゃったようです。平安の面影を残したようなふっくらと、ゆったりした感じの、良いお声の方でした。

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『源氏物語』宇治十帖 大君と中君

薫が宇治の八宮の許に通いだしてから3年が経っている。目的は若くして出家心の強い薫が、仏典への造詣が深い宮に教えを乞うためだったのに、はからずも姫君姉妹の姿を直接見てしまったため、心が動かされてしまう。もちろん姫君たちの事は知らされていたし、間接的にはお互いのことを知っていたのだが、一気に薫の心が高まったのである。これが匂宮であれば、姫君たちがいるということだけで、積極的にアタックするところであろうが、これまでの薫はそうではなかった。このとき薫は20歳、匂宮は21歳、大君21歳、中君は20歳。
折りしも八宮は、近くの師と仰ぐ阿闍梨の寺に7日ほどこもっている最中で、薫はお忍びの単独で馬を使ってであった。さすがにこの時は接近する。そして、この時は、侍女たちによって慌てておろされた簾近くに寄って、消息の和歌を差し上げるのである。しかし姫君たちは容易には返事をしない。こういうとき気の利いた若い侍女でもいれば代わりに返歌をするであろうが、残念ながらやはり世離れした田舎住まいである。
(この返歌もまたそのタイミングも難しい事柄である。あくまでも姫君はつつましく上品でなければならない。それら機微をよく心得た女房、侍女たちを侍らせているかどうかによって、その姫君の格も上がる。そしてたとえ返歌をしたとしても、その文字の良し悪しや散らし書きをするデザインセンス、また紙の種類やその色など、全てひっくるめて評価の対象となる。すなわち単に容貌だけではなく、教養や美的・デザインセンスなどあらゆるものを兼ね備えていなければ、理想的な姫君とはなれない。洋の東西を問わず王朝文化、貴族文化というのは結局そういうものであろう。)
さて、思わぬ訪問を受けた姫たちはというと、宇治という都から離れた山里ではあるが、帝とつながる八宮の姫君たちはその片鱗を備えている。薫のような輝かしい身分の人から真面目に消息をされたら何とかしなければならない。といって対等に堂々と応えて恥を掻くということだってあるわけで、驚いて即答できないままに、大君は「何もわきまえない私どもの状態で、物知り顔でどんなことが申し上げられるでしょう」と、謙遜しながら奥へ退いていくのである。その姿は「よしあり、あてなる声して、引き入りながら、(声を)ほのかにきこゆべく」、すなわち、いかにも由緒ありげで、上品な声をしていて、しかも小さな消え入るような声であり、それがいっそう心を誘うようである。それでもなお薫は引き下がらず、あれこれ細々と話をして、何とか大君から返事をもらおうと思う。と言ってもかえって返事がしにくくなり、そこで老い人の女房にその応対を譲るのであるが、その人こそ薫の実の父親である柏木の乳母であった事がわかり、秘せられていた薫の出自も明かされ、しかもその臨終の様もわかり、遺言も聞かされ遺品も手渡されるという展開になる。すなわち運命の糸に導かれるように、薫はこの宇治と深い縁が出来てしまう。
胸底に鬱積した憂いの種の一つ、出自が判明した事で、いろいろまだ聞きたいことはあるが満足するが、大君の心の声を聞くことはできず、明け方になり、霧も晴れてきて迎えの車まで差し向けられたので、今度は八宮がいらっしゃる時に参りますといって帰って行く。やっとその時薫がしたため差し上げた歌に対して大君から返事がかえってくるのだった。
だがこの話を、つい匂宮に話してしまう。これまで秘し続けていた、隠れ里のような処にひっそりと棲んでいる姫君という夢のようなロマンに、匂が憧れていたということを知りながらである。まめであることで通っていた薫であるから、つい匂宮に自慢したくなったのであろうか。このことが、物語の大きな展開、そして悲劇へと突き進ませる事になるのである。
では、今日はここまで。

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『源氏物語』宇治十帖の月

月の明るさは照明の発達によって実感できなくなったが、それらを無くしてみると月の明るさに感嘆する。先日の台峯での体験はまさにそうで、懐中電灯の明かりしかない山中で、しかも向かいの山稜も麓に所々人家の灯火が見えるだけだったので、満月の明るさを全身に浴び、その色合いの神秘性を体感した。草むらの前方に薄の群れもあり、右上方には満月、そのずっと下にはなだらかな山並みといった情景は、懐かしい谷内六郎の絵のよう、まさに絵のような風景の中で、時代をしばし忘れた。人の顔もそこでははっきり見えるが、しかし昼間とは少し違っているのかもしれないとも思えるのだった。
源氏物語では、当然ながら月は舞台装置にはなくてはならぬものである。雨もまた道具立てとしてよく使われるが、月は何と言っても筆頭だろう。宇治十帖は、薫が道心追究のために山深い宇治の地に源氏の異母兄弟であるが不遇で落ちぶれている八宮を尋ねて、そこで宮が大切に育んでいる二人の姫君を垣間見る事から始まるが、そこでも月が大切な役割を持っている。
時はやはり秋の末、有明の月の頃である。すなわちちょうどこれからの時期ということになる。有明とは、朝になってもまだ月が空に残っている状態の頃なので、だんだん月の出が遅くなり、従って月が朝まで残る事になる。
八宮は近くの師とする僧都の所で修行に励んでいて留守、そこで薫は二人の姫君が奏でる琵琶と琴の音を耳にする。姉妹は警戒心も無く簾を巻き上げて月を眺めながら演奏している。(もちろん警護の者にしっかり守られている筈なのである)
もう馴染みになっていた薫は(宮の許を訪ねるようになって3年が経っている)、宿直の者に頼んで家の中に入れてもらっている。そこで月明かりで二人の姿をみて、たちまち道心は何処へやら恋に落ちるのである。
「源氏」は、演劇的だともいわれるが、むしろ映像的ではないかとも思う。物語絵巻があることからも分るように、場面場面は一幅の絵になっているが、この満月を少し過ぎた月の明るい夜、演奏する二人の姫君の姿があたかも眼に浮かぶような、しかも単にその周りの光景だけでなく姫君一人一人の容姿から立ち振舞い、またそれによって推理される性格や気質まで、詳細でいて簡潔に描写されているのには驚くほかない。まさに映像的であり、また演劇的でもある。
先ず濡縁に寒そうに細っそりした女童が一人、また同じような格好の大人の侍女が一人などがいて、ちょっと奥の方に柱に少し隠れるように坐って、琵琶を前に置いて撥をてまさぐりしている時(これが妹の中君である)、ちょうどその時、流れてきた雲に隠れていた月が「にはかに、いと、明るくさし出でたれば」、中君は、ー扇ではなくて、これ(撥)でも月は招くことができたようですよ!ーと声をあげながら月を仰ぐように顔をさしだすのです。ここで月の光で露わになった中君の顔を、「いみじく、らうたげに、匂ひやかなるべし」と描写する。それに対して、そひ伏したる(ものに寄りそうようにしている)していた大君はこれまで演奏していた琴の上に身を乗り出すようにして傾きかかり、笑いながらこう言うのです。入日を返す撥というのはありますが、月を呼び返すというのは、思ってもいませんでした、面白いこと、などといって笑いあうのです。その大君のけはいは、「いま少しおもりかに(重々しい)、よしづきたり(由緒がある、奥ゆかしい)」と、薫は眺めながら判断する。またこの会話から扇で入日を招くという漢詩のようなものがあるようで、姫君の教養の程も察しられるのである。
このように月明かりは、スポットライトとして、物語の中で重要な効果をあげ、男の恋心を煽る。薫はこの垣間見によって姉の大君に魅かれるのである。
では、この大君・中君と薫についてはこの次に。

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お月見をしながら虫の声を…

このところ台風も接近して秋の長雨のような日々、でも幸運にも昨日一日だけポッカリと晴れになりました。実は満月の日にもう一度松虫を聞こうと企てられていたからです。実は満月は4日なので、日曜日は一日遅れの十六夜です。
その日、朝はまだ多かった雲もだんだん去っていって、夕方になるとすっかり晴れてきて、6時集合、見晴台である老人の畑(通称、今はもう畑ではなく、立ち木と草むらになっている)に来たときは、一片の雲もない空で、満月がくっきりと仰ぎ見られました。Kさんが持ってきた天体望遠鏡で月面を見せてもらいました。クレイターもはっきりと見え、ただ眺めるのとは違う、またTVなどで見るのとも違う面白さです。ゆっくりと老人の畑に向いますが、ほんとうに照明の全くない夜の野道は足もとが覚束ないものです。(懐中電灯を持ってきてよかった。)
ブッシュの向こうから人声らしきものが洩れてきて先客がいました。その三人はお饅頭と里芋を供えて、缶ビールで月見の宴を開いているところで、でもこちらのグループとも知り合いらしく、昼間はサシバの渡りを目撃したと喜んでいます。(供えていたお饅頭は私達にも配ってくれた。ありがたく頂く)
月を眺めながら耳を澄ませます。そして鳴き声を手がかりに草を分けながら懐中電灯で姿を探します。見つけるのはやはりKさんです。最初はなかなか見つからないと言っていたのですが、それはまだ虫と同調しないからで、暫くすると次々に見つけてくれます。すなわち虫の気持というか、その世界が感覚全体で感じられるようになると、どの辺にいるか判るということでしょう。その代わり今度は人間の世界に帰ってくるのにはやはり時間がかかると、Kさんが笑いながら言う。ですから月見の宴をしている人たちとは、話はしてもその後はただ草むらを虫を探して歩くばかり。虫の方が好きなのです。それで松虫の姿を3匹も見せてもらいました。始めのは細身、次はどうも卵を抱えているらしい太ったメス、そして最後は鳴こうとして羽を広げた姿でした。やはり鈴虫と同じように羽を立て振わせながらのようです。
その後十六夜の月は、ときどき雲をまとわせながらもくっきりとした姿をずっと見せてくれました。北斜面にあるわが家からは、残念ながら隣家の屋根に遮られて見ることが出来ません。そして松虫も、暗闇に入ると慣れるまで何も見えないように、最初は声の高いアオマツムシと分離して聞き分ける事ができないでいたのに、だんだん耳が慣れてくると聞けるようになったのも嬉しく、満足させられた夕べでした。
でも松虫の声は、チンチロリンではなく、チンチロまでしか鳴かないようで、皆もそう言っていたのですが、リンは細くて聞こえないのかな? 
そこでも小学唱歌の「虫の声」が話題に出ましたが、前のブログで触れていた長唄でもこの虫の声が歌われているということも知っている人がいて、声の聞きなしは唱歌の方が長唄から影響されたのではないかという事になりましたが。
その長唄の題は「四季の山姥」(十一代目杵屋六左衛門作曲)です。そこでは松虫、鈴虫、轡虫、馬追虫が出てきます。
正味2時間ほど鑑賞してから帰途につきました。

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『源氏物語』宇治十帖の浮舟

源氏を読んでいると、色々思うことが出てくる上に横道にも入っていくことになり、書きたいことも沢山でてきてなかなか終られない。そこで今日は、今考えている私の結論めいたものに、先ず一気に跳んで見ようと思います。
宇治十帖の女主人公の大君と中君の姉妹の姫君を巡る、薫と匂宮の恋の駆引きのお話は一先ず置いて、最初にも述べたように、この世界でも冠たる名著(王朝文化、絢爛豪華で芸術性の高い平安時代の文化のことごとくがここには詰っている)の中に流れる暗いものは何であろう? という事が解ってきたような気がする。もちろん私なりの意見である。
先ず一つは、底流に流れる「もののあはれ」、無常観。それは別に特別な事ではなく、時と共に全てのものは変化し、盛衰することで、当たり前の事だが、これは恋物語なのであるから、それは男女の心、その変化である。そして女が主体性を持てなかったこの時代、主としてそれは男たちの恋心の変化、しかもこの時代は制度的にも一夫多妻のようなものだから、女は男次第ということになる。その女を守る事ができるのが、後見、すなわち父親やそれに代わる男の、地位や権力や財産である。宇治に住む二人の姫君は高貴な血筋(父は八宮、すなわち帝につながる)であるが、地位も財産も乏しい情況に置かれている。そのような女たちはどうなっていくか、そこに紫式部の眼は注がれていく。これが宇治十帖である。
第二に、これは前にも述べたことだが、これが書かれた一条天皇の時代、大きく時代は変っていき、藤原一族、特に道長によって天皇と外戚関係を結んで政権を握っていく摂関政治、父系全盛が確立していく時代。このことによって、姫君たち女性は、ただただ男たちの意のままに生きるしかすべを無くしていくのである。
それをとうとうと流れる無常という時間の大河、そして政治による大きな潮流、それに翻弄されるしかない姫君たちの姿を、哀れに美しく、絢爛豪華に描いたのである。宇治は、宇治川が流れているその頃は都を離れた山里であり、最後に登場させた姫君は「浮舟」。宇治川に漂う小さな舟、「浮舟」というのも、象徴的な命名である。
薫と匂宮はその浮舟を巡ってまた争い、その果てに浮舟は宇治川に身を投げる。しかし横川の僧都に助けられてしまうのである。そして身分も事情も話さないまま、切なる願いによって出家を果たすのである。
浮舟に式部は自分自身を投影させたといわれてもいるが、浮舟によって思うところを語ろうとしたことは確かであろう。
式部が出仕したのは、1005年か6年、夫を亡くして4~5年、その間彼女を救ったのは物語り好きの友人たちだったらしく、その間に源氏物語の一部は書かれ、それが評判になって道長も彰子付きの女房へと召抱えたのであるようだ。いわゆる、のし上がっていく権力の中枢部を裏側から眺めていた。衰退していく一条天皇側の姿もやはり伝わってきたはずで、その皇后定子の哀れも見ていたであろう。それに仕えた清少納言の悪口を日記に書いているが、それはライバルであるからであり、互いに意識せざるを得ないのは当然である。生身の人間同士であれば嫉妬がありプライドもある、そんなことは大したことではない。それぞれの特質を活かして、女主人を精一杯助け励まし、そして素晴らしい作品を生み出したのである。
新鮮な感覚が勝負のエッセイを得意とした清少納言と違ってドキュメンタリー的な散文ということになれば、やはり権力の最中に紛れ込んでいた方が、物事も良く見えてくるであろう。
宇治十帖を、「光のない憂き世の物語」(赤羽龍夫)という意見、またこれを書き終えた式部は、為すべき事はなし終えたと、仏道に惹かれていた(今井源衛)という論もあるが、そのようにこの最後の辺りは暗いものが漂う。浮舟の出家後の心境は、まさに式部自身の心の描写、解説である。
書き終えてから暫くは彰子の下にいたが、最晩年は実家で静かに暮らしていたらしい。資料上、1019年まで確認できるという。結局表立った活躍は、13、4年ということになる。もう少し書き足りない部分を次に書くことにします。

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虫の声

今日のFM放送の「弾き語り・フォーユー」で、リクエストが多かった曲として、「虫の声」と「小さな秋」がピアノで流れてきた。(この番組はこのブログのJinbeiさんから教わったもので、聴けるときにはほとんど聴いている楽しい番組です)。秋といえば虫の声という感覚はやはり伝統的なのだなあ、平安の昔から延々とこの国の人たちは虫の声に耳を傾けて秋を感じたのだなあ、と思った。
しかし私自身、最近は食事時、TVのニュースを見たりしていて、ほとんど静かに耳をすませて虫の音を聴くなどしていないことに気がついた。それでTV を消してみた。6時くらいになってやっと虫は鳴き出したが、思ったより多くはないのである。狭い庭だが、ほとんど野原に近い感じになっているのにである。昔は確かカネタタキなどの声を聴いた気がする。暫くすると確かに虫たちは鳴き出したが、やはりアオマツムシらしい。木の上のほうから聞こえてくる。歩き回っているうちに、少しは下の草むらから声がしていて、どうもツヅレサセコオロギのようだ。とにかく虫の声に包まれるというのはいいなあ…。でもそれほど多くはないのである。TV ニュースなどでアナウンサーが、虫の声が溢れるように…などと言っていたが、それの多くはアオマツムシで、都心の街路樹などに沢山いてうるさいほどの声を聞いたことがあるが、それではないのだろうか。
いわゆる「虫の声」にあるような虫たちは今でも活発に鳴いているのだろうか、と思うのだった。それにしても平安時代に宮廷で虫の声を聞きながら、殿上人たちがそれに合わせるように演奏した、その有様を想像してみるのは楽しい。笙などの笛、雅楽がやはり似合うだろう。「鈴虫」のなかに文字として出てくる楽器は、横笛と和琴、七弦琴である。
先に虫もよく見ると親しみが出るといいながら、ゴキブリはやはりぞっとすると言ったが、実はこの感覚は昔からのものではなく、現代になって作られたものだということを知った。『害虫の誕生ー虫から見た日本史』(瀬戸口明久・ちくま新書)によると、害虫という概念ができたのは近代国家になってからで、またゴキブリが誰からも嫌われるようになったのは、むしろ戦後からで、昔はこのゴキブリをコガネムシと言っていた地方があったということ。それについてはこれを読めば判るし(私もまだ全部読んでいない)ここで紹介するつもりはないが、あれやこれやで虫の話は尽きなくなってきて、三味線の虫の声についてはまた後回しになってしまった。ではまた。

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『源氏物語』の「鈴虫」と わが庭

この家の狭い庭も秋の野花が美しくなった。夏場はいくら抜いても抜ききれない勢いにうんざりし、憎らしくも思っていたのに怠け者のせいでその多くが残り、今は小さく可愛らしい花を咲かせている。こうなるとお金と手間をかけて華やかな園芸種など植えなくても、自然のままの花を楽しむだけで十分だな…など勝手なことを考え満足するのだった。
何時までも花を咲かせ続けている秋海棠をはじめミズヒキソウ、ホトトギス。タデもいろんな種類を知ったせいか特別な感じで眺めている。まだ露草も咲いている。ヤブランはもうおわりだ。これは植えたものだが、朝顔も終わりに近いが団十郎と大輪の白がまだ咲いている。
いわゆる虫は、このような野原、原っぱ、田んぼや畑の畦など、それに付随した喬木に多く棲むわけで、深い森や林ではない。すなわち人間と共存した里であり、里山である。虫の音を鑑賞するのは日本人だけ(?)で、西欧人の耳には雑音としか聞こえないなどと聞いた事があるけれど、そうだとするとやはり古来から虫とのつながりは深いということだろう。そうは言ってもただゴキブリだけは嫌だなあ、見つけると反射的に殺したくなるのはやはり先祖からの遺伝子だろうか。
1千年前の宮廷でも、虫の音を賞でる宴が催され、その詳細が「鈴虫」の帖に描かれている。38帖目であるからこの長編も後半に入り、源氏50歳の晩年で、女三宮と柏木の密通事件が柏木の死という結末になり、それに続いて女三宮の出家という事件も一段落した頃の秋、その女三宮(入道宮)の持仏開眼供養が盛大に行われた後、静かになった8月15日、すなわち中秋の名月の日ということになっている。旧暦であるから今では9月終りである。ちなみに今年の8月15日は、10月3日であるが満月は4日である。
女三宮の住む六条院の西の渡殿(渡り廊下)の前を「おしなべて、野につくらせ給へり」とあるから、その辺り全体を野原のように整えて、そこに棲む虫たち(主として鈴虫)の声を聞くという趣なのである。その宴を源氏は主催する。女三宮の周囲には、女房たちの中から選りすぐりを十余人を選んで侍らせるが、その事を聞きつけて夕霧、蛍兵部卿その他殿上人たちが次々と、月見をしながら管弦の遊びをーと集まってくる。それら楽の音を洩れ聞いた冷泉院からも誘いがあって、そちらの方に流れていき、一晩中の管弦の演奏、また詩や歌をつくってそれを披講して、やっと明け方に退出という事になる。
これは女三宮邸で行われることから、女主人を慰める気持があると同時に、柔和で艶めかしく、笛の名手であった(遺愛の横笛を夕霧に残してもいる)柏木を、それぞれが偲ぶ巻ともなっている。
さてそこに源氏の虫の音の好みが描かれているので書き出してみる。秋の虫の中で、声は松虫が一番といわれているが、(とあるので、その頃から松虫は定評があったようだ)しかし、名前と違って命がはかなく、また「いと、へだて心ある虫になむ」とあり、それに対して鈴虫は「心やすく、今めいたるこそ、らうたげなり」と、女三宮に向かって感想を述べている。すなわち松虫はどことなくよそよそしい感じで、鈴虫の方が親しみがあると感じているようだ。確かに松虫を飼うのは難しいが、鈴虫はよく飼育される。私も団地に住んでいたときに飼っていたことがあるのだった。
それにしても宮中の中に野原を殊更に造ったというのが面白い。ヴェルサイユ宮殿にはないものだろう。貴族並に私もそれを良しとして楽しんでいることも考えれば面白い事である。この風流は、その頃は暮らしに余裕などなかった庶民には与えられなかったことだろう。しかしだんだん庶民もそれが楽しむことができるようになる。
長唄(三味線)の中にもそんな虫の声を表現したものを思い出したので、もう一回それについて書いてみることにします。

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松虫の声を聞く

台峯歩きと同じ日の夕方、松虫の声を聞く会が開かれました。
6時集合。参加者は11人。蛍の時とは違ってまもなく日は暮れていきました。
はじめての参加です。果たして松虫はいるだろうか? またその声を私は聞けるだろうか? 一昨年は松虫の声は聞けず、皆で仰向けになって星を眺めて帰ってきただけだったとのこと、それで昼間歩いた時、Kさんは、いわゆる「老人の畑」で虫たちの様子を心配げに点検していたのでしょう。今年は先ず大丈夫だと言っていましたが・・・。
結論を先に言いますと、今年は当たり年だったそうです。幸運でした。私の耳も何とか松虫の声を捉えることが出来、その姿もちゃんと眺めることができました。蛍とは違い懐中電灯を向けても平気で逃げたりもしません。うるさいなあーというような顔をしているくらい。マツムシだけではなく、バッタ類、オンブバッタやショウリョウバッタ、それから眼の下に涙のような黒い斑点があるツチイナゴ(まだ若いのでバッタのように緑色で可愛らしい)、触覚が長いクサキリなど、こんな風に虫たちを眺めたことがなかったので、面白く楽しかったです。
マツムシも、この分では100匹くらいはいるだろうとのこと。これもこの辺りの草地の手入れがうまくいったからでしょう。松虫は、ススキや笹などイネ科植物、萩に多く棲んでいるそうです。しかし虫は松虫だけではなく、その他の生物たちとの兼ね合いも考えねばなりませんし、とにかく自然は一筋縄ではいきません。でもここは貴重な松虫の生息地として何時までも残しておきたいというのが会の方針なのです。葛の茂みには居ないようなので、これはもう少し刈った方がいいかな、などと言い合っています。
実は、集合場所から耳を傾けながらゆっくり歩き出したのですが、最初私の耳はうまく働きませんでした。「あ、〇〇が鳴いている!」と、もちろんKさんの耳や眼は特別ですが、そう言われても私の耳は、そうかしら、と思うばかり。そのうち、うるさいばかりのアオマツムシの、あの声が聞こえてきます。それらに混じって、ささやかな日本古来種の虫たちの声を聞きださねばならないのです。「あ、マツムシの声が聞こえた」という声、「でも、何だか弱々しいなあ・・」など言っている人がいます。「この辺で鳴いていますよ」。しかし最初はなかなか聞こえなかったのです。聞こえるのはアオマツムシだけ。またそのほかのを聞こうとしても、何だか自分の耳鳴りのようでもあり、そうではないような…。
人間の耳は機械と違って、周囲の音を全て収録しているのではないとよく言われます。だから難聴になったときに使う聴音器が、自分の耳に合わないといわれるのもそのせいでしょう。人は選択してものを聞いているようです。何かに集中している時は物を言いかけても聞こえないというふうに。聞き分けもやはり慣れがあり、訓練です。たぶん音楽の指揮者は、オーケストラの各パート全てを聞き分けているに違いありません。
耳を澄まして歩いていき、そして肝心の「老人の畑」に来て、草むらを歩きまわりながら聞いているうちにやっと、マツムシはあの声だと聞けるようになりました。一応マツムシはチンチロリンと鳴くといわれ美しい声とされています。これは文字により表記ですから、やはりそれぞれ人によって違いますから表記はし難いのですが、確かにそんな風にも聞こえ、実際はピッピリリ、といった少し高い声です。ここは草地ばかりで、アオマツムシがいなかったから私にも聞こえたのです。まだ多くの虫の声の中から識別するのは難しいでしょう。
とにかく松虫の声も聞け、その姿もしみじみと眺めることができ、大満足。星も夜が更けるにつれ、また眼が慣れるにつれ少しずつ星も見えるようになり、星に詳しい人の説明、また実際にUFOに遭い、写真も撮ったという(?)人の話なども聞きながら、正味一時間ほどの松虫を賞でる会はお開きになりました。
次回は、『源氏物語』にも、「鈴虫」という帖があり、虫の声を賞でる宴の情景が描かれています。そのことについて触れて見たいと思います。

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初秋の台峯

昨日の日曜日。台風は太平洋沖を通過して逸れ、秋晴れの気持の良い日になりました。
恒例の台峯歩きの日、連休で遠出が多いせいか参加者は14人、程よい人数でした。
彼岸間近で秋の気配も色濃くなり、毎年感心するのですが、彼岸花もちゃんと姿をみせてくれていました。
森や林の緑も勢いを失って衰え始め、桜を手始めに少しずつ色づいていきます。TVで大雪山の見事な紅葉をみて思わず声をあげそうな見事さでしたが、しかしそれも僅かな期間、まもなく雪に閉ざされていくようです。それに比べてこの辺りの紅葉は地味で、しかもゆっくりと12月半ば頃にかけてじわじわとしか進みません。その分春も同様、ゆっくりと春の気配も顕わになります。東北のそれら急激な変化とは違うその微妙な変化もまた別の味わがあって自分は好きだ、と案内のKさんは言うのでした。
今回は秋の昆虫を中心にした観察となりました。しかも今日の夕方は「松虫の音を聞く夕べ」が催されることになっています。この虫は有名で、チンチロリン、と鳴くと言われますが、その声を聞いたことのある人は少ないでしょう。私もまだです。
通称「老人の畑」にたくさんいるそうです。松虫自身の生息地は少なく、ここと城ヶ島にしかいない貴重種になっているようです。
先ずコオロギ、これもたくさん種類があって、よく見られるのだけでもエンマコオロギ、ツズレサセコオロギ、オカメコオロギ、ミツカドコウロギ、クチキコオロギなど、姿や生息場所や声などいつもの資料で。
庭の低木で鳴く美声のコオロギに「クサヒバリ」というのがあり、名前も綺麗だし小型で羽根も透明で美しいのですが、きっとこれまで聞いていても、気がつかないままでいたのかもしれません。そのほか「マダラスズ」というコオロギは、畑や街中の駐車場(土の上に砕石をしきつめたような場所)には必ず多数いるそうです。これはジー、ジーと区切ってなくそうですが、小さな声なのでなかなか気がつかないのだということ。「シバスズ」というコオロギは、名前のように芝生や低い草地、畑の周辺に見られ、ジージーと連続して鳴く。
その他これも有名なカンタン。私も聞いたことのあるカネタタキ。また今や何処の街路樹にもいて大声で鳴きしきっている外来種のアオマツムシ。
もちろん皆見たわけではありませんが、それらを参考にしながら歩きました。
2箇所の田んぼは健在で、黄金色の穂を揺らしています。その上をトンボ…、実は普通赤トンボといっているのはウスバキトンボという種類であることが多く、これはあまり竿の先などには止まらない。竿の先に止まるのはアキアカネという、これが本当の赤トンボだとの事。この赤トンボはこれからがシーズン。胴の赤みも季節が進むにつれて次第に濃くなっていくといいます。今飛んでいるのは多くがウスバキトンボでした。(これは6月ごろ台湾から渡ってきて産卵し、8月ごろ生まれるが、越冬できないままで終る。ショウリョウトンボとも言う。学校のプールなどでも大量に生まれることがあるとも)のんびりと竿先のようなところに止まることなくひたすら飛び回っているのは、そういう命の短さを知っているからでしょうか。
シオカラトンボはそろそろ終わりごろ。
そのほか老人の畑では、バッタ類も、ショウリョウバッタ、オンブバッタ。ツチイナゴ、クサキリなど、そして松虫も確かにいることを確認。今夕の催しが期待されます。
草花は、同じタデでも、イヌタデ、ハナタデ、ボントクタデ、シロバナサクラタデなど、確かに姿の違うタデがあることに感心。また珍しいナンバンギセルにも逢えて満足しました。

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