急に梅雨が明けた、と思ったとたん早々に猛暑である。古典などを読むのは長雨の季節の方がいい。からりとした夏空は、書を捨てて、山か海へ! と人を誘い出す。
さて源氏物語にも、雨が多く登場する。先ず第二帖目の「箒木」には、有名な「雨夜の品さだめ」と称される梅雨の長雨の季節、源氏を中心とした若い公達3人が、女性論を語る場面があるが、それも降り込められてどこにも出かけられないからであり、退屈にまかせて女の品定めをするのである。そのほかいろいろ、とにかく雨は文学上には欠かせない要素であることは言うまでもない。しかしこれを読んでいると、風土や季節感と言うのは1千年前であってもそれほど違いはないものだなあ、と思わせられる。そしてしっとりと湿り気の多い風土であるゆえの香を焚きしめたり漂わせたり、朧に霞ませたりにじませたりする美の感覚が生まれるのだろうとも・・・。
しかしこの物語を読んでいくうち、確かに素晴らしい作品だと感嘆しつつもあまり楽しくはならないことに気がついた。何となく気が滅入ってくるのである。はかなく悲しくなるのである。まさに「もののあはれ」、無常観がひしひしと感じられる。季節の推移、時間の流れが麗しく優美に展開するが、それが絢爛として豪華であるだけに、かえって物悲しくなるのだ。
朝のBSで「日めくり万葉集」という、いろいろな人がお気に入りの一首を紹介する短い番組があり聴いているが、万葉集の歌は、とても気持がよく楽しい。恋の歌などは、ワクワクする感じである。しかしこの源氏では、全編が恋の物語であるにもかかわらず、物悲しいのである。
それはなぜだろうと思っているとき、大野晋氏の文章(14巻の付録の月報)を読んで、自分なりに納得したのであった。(氏は昨年のちょうど今頃亡くなられた)。その要旨(私の気持を説明してくれるような部分だけ)をここに書いてみます。
万葉集と源氏物語の歌との比較で、その悲しみには「何か本質的な相違がある」として、万葉の女性のは悲しみであってもどこかに底に、確かなものがあり、安らぎがあり、強く、すこやかで堂々としたところがある。しかし源氏では、女のはかなさ、たよりなさが滅入るような悲しみにたたえられながら表現されている。この相違は何によるのだろうと、考えていたそうで、その理由が述べられている。
それは国家及び社会の組織、法制によるところが大きい。
すなわち日本では大化の改新以後、法制的に父系制的な社会になっていく。しかし万葉の時代に見える結婚の様相は、いわゆる妻問い婚、これは古代の母系的な社会習慣の名残であり、こういう社会では財産の相続も妻の分け前もかならず確保されており、女は男にすがって生きていかなければならないということはなかったのだという。ところがこの妻問い婚が次第に婿とり婚の形式へと移っていき(源氏はこの過程である)武士の時代になって、その後室町期になると全く嫁取り婚になってしまうのだという。ここからまさに「女は三界に家なき」存在になってしまいそれが明治まで続くのである。
源氏が書かれた時期、「藤原氏の権力と富との集中によって、男子の圧倒的な強さが確実に示されてきていた」という。この圧倒的な権勢を目の当りに見た式部は、最初は単純な男性讃美(光源氏への憧憬)から物語を出発しながらも、だんだん書き進むにつれて目が開けてきて、見えてきたのは「そこにはもはや古代の女性中心の世界は失われ、女子は男子に隷属する以外に、愛し愛される世界を作ることができなくなっていた。女子が男性に従わずに生きて行くことができなくなるという女性の運命の予感が一人の天才をとらえた」のだとする。
どんなに美しく聡明であっても、またどんなに生まれもよく、財産をもつ家の出であっても、女は何の力もないのである。女三宮という皇女が登場するが、天皇の娘であっても、過ちからの不倫を犯して源氏に疎まれながらも源氏に頼らざるを得ない。天皇(この時はもう院になっているが)にも、どうしようもないのである。
「源氏物語を生み出したエネルギーは、いわば古代社会において生きていた女性の自由な闊達な生活と精神とにその源泉がある。それが全く失われようとする直前に、最後の光芒を放つに似て、未曾有の女性の愛と悲しみとの物語が生み出された。源氏物語が、作られた当初から人々に愛読されたらしいのも、当時あらわにでなくて、しかもひそかに確実に迫っていた女の運命の変革という歴史的現実を、この作品がしっかりと見据え、それを精緻に描いていたからなのではないか。」という解釈に私は深く共鳴する。炯眼だと思いました。ついでにこの小論の題は、「平安時代に何故一人の女が 源氏物語を書いたか」となっています。
では今日はこれまで。
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