地方の力(小野市を訪ねて)

TV番組、鶴瓶の家族に乾杯を時々見る。タレントが鶴瓶さんと一緒に、地方の訪れたい処に行きそこの家族と交流する、本当にぶっつけ本番の番組という。
その他にも各地の食材を探し、そこでぶっつけに調理する、走るキッチンとか、その他、民放でもそれに類した地方の魅力を探して放映する番組が最近増えたような気がする。
それらを見ていると、日本の地方がいかに自然に恵まれ、それらに育まれた人々の暮らしががいかに豊かでゆったりした生活をしているかと感じることが多い。それでそこで暮らす人々も自ずから心豊かで親切なのだ。
鶴瓶さんも今回の被災地にも尋ねるが、そのことだけでなく、三陸海岸をはじめとする東北地方の自然、そしてそこでの海・山の恵みがいかに素晴らしかったか、港がどんなに活気づいていたか、人々がいかに生き生きと働いていたか、 現況の悲惨な有様の向こう側の姿をあらためて気づかされるのであった。
しかしこういう現況であっても、その地の人々は屈することなく立ち上がろうとしている、そのことに感動せずにはいられない。
「地方の力」というものを感じる。大昔から、その土地に深く根付いた生活をしている人の力、というか、トポスの力、伝統の力と言ってもいい。そう感じ始めたのは、小野市を訪れた時からである。
心身落ち着かずにいたとき、朗報が飛び込んできた。水野るり子さんが小野市詩歌文学賞を受賞されたという。お祝いに駆けつけるのには少々遠いと思っていたが、これをチャンスとして私自身も旅をしようと思ったのだった。その上これを機会に、帰りには神戸(従妹が震災にあい夫を亡くしている)にも寄り、17年前に震災に遭ったその地の復興の姿を見、従妹とも話しをして来たいという欲張った考えもあった。
実は、小野市を私は知らなかった。関東以北の人はあまり知らないのではなかろうか。ソロバンや刃物の生産では有名だということや、近くに揖保の糸という素麺を産するということで知っている人もいるかもしれない。私は素麺はもっぱら揖保の糸だから馴染みなのに…。
新神戸から地下鉄で15分ほど行き、そこからは豊かな緑が迫ってくる中を箱根鉄道のような(それほどの山坂ではない)電車でとことこと1時間ほども走る。そこは周囲が森に囲まれた、広々とした平野の広がる、何やら映画「サムライ」に出てくる武士たちがこもった隠れ里、桃源郷のような感じのする(少々オーバーだが)町であった。
温暖な瀬戸内海気候と豊かな自然に恵まれているだけではなく、奈良時代から続く文化が国宝級の寺や仏像を交えて遺跡も多い。温泉まであるようだ。
そこには自然と文化も育ち花開き、歌人として著名な上田三四二を先人とした文化活動も盛んで、全国的で大きな、この詩歌賞はまだ歴史は浅いが、市民の「短歌フォーラム」は20年以上も続いてきているようである。
このような文化的イベントを開くにはまず財力がいる。そして何よりも市民の意識、文化度が高くなければならない。
そして実際の行動力も求められる。経済的文化的に豊かでなければできない事柄である。
ここにも「地方力」というものを私は感じた。
この、地方の力があるゆえに、国家とか政府とか、抽象的で中央集権的な日本のトップが、オタオタして頼りがいもなく、またたとえ誤った方向に人々を導いたとしても、この地方の力、そこで根を張って生きている人々の力が一種の復元力となって、日本を復興させる(あの大戦からも)のではないだろうか、と思ったりした。
これを書いている私も実は地方から出てきた人間である。しかしまだ貧しかった時に、その地を離れ、その後は根無し草になって、東京(近辺)という吹き溜まり、にたどりついた。いわばデラシネである。しかしそれだから、それが良く見えるのかもしれない。東京と言っても、下町などというのは一種の地方である。ここにも地方力があり、それが今見直されているような気がする。
そして、森に囲まれ、自然も人も豊かなこの小野市によって、森の深みにまで踏み込んでいくような水野さんの詩集『ユニコーンの夜に』に、賞が与えられたことは相応しく、何やら不思議な縁を感じた。 

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