やっと「蛍」の続き。

身辺も心も落ち着かず、続きのブログをやっと書きます。
今日は早くも猛暑、また大雨や土砂災害、ここでは感じませんが余震も頻繁に報じられます。台風5号も北上中、なんとこの国は災害の多い国だろうと改めて感じ、そういう国にどうして原発を沢山作ったのだろうと、それを見過ごしてきた自分へのやり場のない苛立ち(こんなことを感じても何の役にも立ちませんが)も含めて、思います。
今のところ読書もほとんどしていませんが、少し前に読んだ故・米原万里のエッセイ集中「最良の教師」という項目があり、昔から青少年の教育についていろいろな哲学者がその方法について考察し論じているその中で、彼らが一致して認めていたことを要約すれば、「欠乏と必要性、要するに満ち足りていないことこそが人を懸命に努力させ頭と肉体をフル回転させる最良の教師なのではないか」ということであるそうだ。そして哲学者・教育者ルソーは反語法を用いて「子供をスポイルするのは簡単だ。彼が欲しがる玩具を全部買い与えてやるがいい」と言っていると。そして震災を知らずに逝った彼女はこう結んでいる。「何だか、モノに溢れる二十一世紀初頭の日本に住むわたしたちのことを言われているようで、ゾーッとしないのだけれど」。(『心臓に毛が生えている理由』)
被災地の大人たちの立派さは勿論ですが、それ以上に子供たちの姿が印象的なのも、この悲惨な現実に胸が痛くなるにもかかわらずそれが子どもたちの潜在能力を引き出しているような気がして、明るいものを感じます。この災厄が良い方向へと転じる機縁となりますようにと祈りつつ。
閑話休題。さてホタル観察会ですが、今年はやはり蛍は少ないようでした。遅れているのかもしれませんが。6時半に集合、暗くなるのを待って谷戸に入ります。大体7時ごろからです。それから1時間ちょっとぐらいが蛍が光り飛び交う時で、9時になるともう見られなくなります。たったの2時間弱、それが彼らの命を懸けた生涯での一大イベントなのです。この日朝は雨がぱらつき、前日まで雨でした。この日も取りやめになるかもしれないと、毎日のように通って蛍の出方を観察しているMさんは言っていましたが、Kさんは、少ないけれど見られますよとということで、出かけることになったのです。
雲が多いのでかえって辺りは真っ暗というより薄暗い感じ。しばらく歩いているうちに一つ二つと見つける人が出てきました。そしてある所の草むらにキラキラ光るところが出てきました。これは平家ボタルです。
源氏ボタルのほうが早く、平家はもう少し遅いはずなのに、今年は一緒に見られたのです。この二つは大きさが違い光り方が違います。源氏のほうが大きくまた点滅も間隔が長く、平家は姿も小さく点滅も小刻みです。そして源氏は樹間にいて上空を飛びますが平家は低い草むらにいることが多く、それで踏みつけないように気を使います。
今回はまず平家が現れて、そのうちに源氏が姿を見せました。その頃になるとあちこちで光りはじめ飛ぶ姿も見られ、歓声が起こります。
せせらぎや沼沿いに谷戸の奥まで歩き、またそこから引き返します。でももう帰りの時は数が少なくなっていました。数としてはせいぜい37~8頭ぐらいだとKさん。多いときは200くらいも出るのにやはり少なかったようです。
しかし蛍に出会えただけで満足です。皆そういう気持ちのようです。
なぜ蛍を数えるのに「頭」を使うのでしょう。昔の人は昆虫の中でもやはり特別なものとみて、馬や牛など同じ扱いをしたのでしょうか。
「今年も蛍に会えて満足しました」というと「本当に、桜と同じで蛍も短い期間に年に一度しか会えないものだから、日本人にとってはやはり特別なものに感じますね」と同意されました。
蛍は外国ではあまり良い印象を持たれず不吉なものにされることが多いと聞きます。でも日本では平安の昔から風情あるものと好まれています。虫を賞で、虫の声を雑音としてでなく音楽として愛するのも、やはり日本文化独特のものかもしれない。

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