お月見をしながら虫の声を…

このところ台風も接近して秋の長雨のような日々、でも幸運にも昨日一日だけポッカリと晴れになりました。実は満月の日にもう一度松虫を聞こうと企てられていたからです。実は満月は4日なので、日曜日は一日遅れの十六夜です。
その日、朝はまだ多かった雲もだんだん去っていって、夕方になるとすっかり晴れてきて、6時集合、見晴台である老人の畑(通称、今はもう畑ではなく、立ち木と草むらになっている)に来たときは、一片の雲もない空で、満月がくっきりと仰ぎ見られました。Kさんが持ってきた天体望遠鏡で月面を見せてもらいました。クレイターもはっきりと見え、ただ眺めるのとは違う、またTVなどで見るのとも違う面白さです。ゆっくりと老人の畑に向いますが、ほんとうに照明の全くない夜の野道は足もとが覚束ないものです。(懐中電灯を持ってきてよかった。)
ブッシュの向こうから人声らしきものが洩れてきて先客がいました。その三人はお饅頭と里芋を供えて、缶ビールで月見の宴を開いているところで、でもこちらのグループとも知り合いらしく、昼間はサシバの渡りを目撃したと喜んでいます。(供えていたお饅頭は私達にも配ってくれた。ありがたく頂く)
月を眺めながら耳を澄ませます。そして鳴き声を手がかりに草を分けながら懐中電灯で姿を探します。見つけるのはやはりKさんです。最初はなかなか見つからないと言っていたのですが、それはまだ虫と同調しないからで、暫くすると次々に見つけてくれます。すなわち虫の気持というか、その世界が感覚全体で感じられるようになると、どの辺にいるか判るということでしょう。その代わり今度は人間の世界に帰ってくるのにはやはり時間がかかると、Kさんが笑いながら言う。ですから月見の宴をしている人たちとは、話はしてもその後はただ草むらを虫を探して歩くばかり。虫の方が好きなのです。それで松虫の姿を3匹も見せてもらいました。始めのは細身、次はどうも卵を抱えているらしい太ったメス、そして最後は鳴こうとして羽を広げた姿でした。やはり鈴虫と同じように羽を立て振わせながらのようです。
その後十六夜の月は、ときどき雲をまとわせながらもくっきりとした姿をずっと見せてくれました。北斜面にあるわが家からは、残念ながら隣家の屋根に遮られて見ることが出来ません。そして松虫も、暗闇に入ると慣れるまで何も見えないように、最初は声の高いアオマツムシと分離して聞き分ける事ができないでいたのに、だんだん耳が慣れてくると聞けるようになったのも嬉しく、満足させられた夕べでした。
でも松虫の声は、チンチロリンではなく、チンチロまでしか鳴かないようで、皆もそう言っていたのですが、リンは細くて聞こえないのかな? 
そこでも小学唱歌の「虫の声」が話題に出ましたが、前のブログで触れていた長唄でもこの虫の声が歌われているということも知っている人がいて、声の聞きなしは唱歌の方が長唄から影響されたのではないかという事になりましたが。
その長唄の題は「四季の山姥」(十一代目杵屋六左衛門作曲)です。そこでは松虫、鈴虫、轡虫、馬追虫が出てきます。
正味2時間ほど鑑賞してから帰途につきました。

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