『源氏物語』宇治十帖 その2

予想を上回るような劇的な政権交代で民主党が大勝した。オバマ大統領のチェンジの呼びかけが、この国の人々をも鼓舞したのかもしれない。どんな風になるかわからないが喜ばしい事である。
さて「源氏」が書かれた一条天皇の時代も、大きく時代が変ろうとしていた(女性にとっては厳しい時代へと入るのであったが)。それは書きはじめにも少し触れたが(父系制度になっていくこと)、じわじわと台頭していた藤原一族の力が、道長の時代になり一気に高まり、その全盛時代へと入っていくからである。いわゆる摂関政治の確立である。
摂関政治とは自分の娘を次々に内裏に入れて外戚関係を結び、皇子が生まれれば祖父として、また次期の天皇の父親として政権を握るというやり方である。
先に入内した中宮(後に皇后)定子は藤原道隆の娘で、仕えたのが清少納言であり、後にまだ若いうちに道長によって送り込まれたのが、女御(後に中宮)彰子で、これに仕えたのが紫式部である。この道隆と道長は歳の離れた兄弟であるけれど、万葉時代もそうであった様に、両家の政権を巡る争いに、最初はそれほど期待されていなかった道長が成り行きや偶然や運によって頭角を現し、中関白家といわれる道隆の家系が瓦解の道をたどり、道長の一族による独裁政権となっていく。いわゆる「望月の欠けたるところなし」という栄華を極めるようになる。勝者となる彰子側に紫式部はいたのだが、この有様を作家としての眼でしっかりと見ていたのである。
敗者側の定子と一条天皇は、稀に見る純愛で結ばれていた同士で、道長側による露骨な苛めからも懸命に守るのであるが、天皇の力でさへ守りきれず、また家臣たち、いわゆる知識人にあたる学者たちでさえ、権力には無力となり定子は悲運のなか(とはいえ一条からは心から愛された幸運も又のちの悲嘆も、とにかく浮沈にみちた)24歳の若さで世を去るのである。後に一条天皇も32歳で没する。
この没落していく後見ゆえに露骨にいじめにあっていく定子を、持ち前の明るさと才気で支えたのが清少納言であった。
少々前置きが長くなったが、「源氏」は、これらの生々しい政治の現実の中で描かれたということ、その人間模様の実像が、この物語のなかには鏡に映る像のように、虚構としての姿であるが映し出されているのだということが、いまやっと読みとれるようになった。「日本紀などは片そばぞかし」といった式部の真意はここにあるのだろう。その事を分らせてくれたのは、『源氏物語の時代いー一条天皇と后たちのものがたり』(山本淳子)である。これはとても読みやすく、歴史の詳細な記載は苦手な私でも、すっと入り込めて物語を読むように歴史を辿る事ができた。
閑話休題。
さて宇治十帖に入ることにしますが、又長くなってしまいましたので、とっつきだけを述べて次回まわしにします。
宇治十帖は「橋姫」からで、源氏と正妻である女三宮の息子である薫は、自分の出自に何となく疑問を感じているせいか若くして出家心が強く、この世をはかなく思っているのだが、かれが山深い宇治の八宮を訪ねるところから物語りは始まる。
前に「六宮の姫君」について述べたが、これからも分るように、「宮」と付いているので生まれは帝の血筋であるわけだが、六番目ということは、恩恵がまわってこない可能性がある。しかもこれは八番目である。それゆえ正統な流れからそれて、政治からも取り残されてしまい、それゆえ出家の気持が深く宇治へ引きこもってしまっている境遇なのである。そこに同じ出家の気持をもつ薫が尋ねていき、思いがけず二人の姫君、大君と中君を垣間見るところから物語は展開するのです。
では続きはまた。

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