「オペラ・アリアと第九」を聴きに行く

冬至の昨日から生暖かい風が吹いて、冬らしくない陽気の今日だが、先週の水曜日は一日冷たい雨であった。
その日、例年のように「第九」を聴きに出かけた。今回がラストコンサートだということである。
パンフによると、コール・フリーデが第九を歌い続けて31年になるということであった。その記念すべきコンサート、友人のTさんが最近の世話役の一人なので、このところいつもその楽しみを分かたれている私としても、やはりある感慨があった。しかし年末に第九を歌うことはないにしても、合唱団としての活動は続けられ、定期的な演奏会はつづくという。長い間、ご苦労様でした! そしてありがとう! なお今後も充実した活動を、と祈りながら心をこめて聴きました。
第1部は、特に今回はソリストに日本有数のオペラ歌手をそろえての、馴染みのあるオペラ・アリア。
   モーツアルト 歌劇『フィガロの結婚』より
      谷口睦美(メゾ・ソプラノ)  「恋とはどんなものかしら」(ケルビーノ)
      福島明也(バリトン)     「ため息をついている間に」(伯爵)
   モーツアルト 歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』より
       樋口達哉(テノール)   「恋のいぶきは」(フェランド)
       佐々木典子(ソプラノ)  「岩のように動かずに」(フィオルディージ)
第2部  ベートーベン 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付」
第九は、年末恒例になってしまった感がある。この時期歌われることが日本では特に多い、と聞いたことがある。
今町に出ると、ジングルベルがあちこちから聞こえ来て、うるさいほどである。皆がクリスチャンでもないのにと、商業主義に踊らされている事に腹立たしいような、又それにお尻を叩かれて働かせられている人たちを見ると、気の毒な感じさえする。しかし、この第九が多くの人に歌われることは、しかも普通の人たちによる合唱があちこちに見られることは、いいことではないかと私は思う。
なぜならこれにこめたベートーベンの思い、そして合唱として歌われるシラーの詩の趣旨が、今こそ広く歌われるべきで、それを日本人の名もない市民たちの口から歌われることは、意義あることだと思うからである。弱小国日本が、世界に向けて発信できる事は、このシラーの詩、又ベートーベンの曲にこめられた祈りしかないのではないかと、これを聴きながらしみじみと思ったのである。
その詩のさわりの部分だけをほんの少し、誰でもご存知でしょうが書き上げてみて、結びといたします。
 
  [歓喜の歌]
         「  (略)
          歓喜、美しき神々の火花、
          楽園の乙女!
            (略)
          汝がやさしき羽交(はがい)の下に憩わば、
          すべての人々は兄弟(はらから)となる。
             (略)
          生きとし生ける者は、歓喜を
          自然の乳房より飲む。
          
             (略)
          百万の人々よ、わが抱擁を受けよ!
          この接吻(くちづけ)を、全世界に!
             (略)                」

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