一難去ってまた一難

乾燥続きの夏が過ぎると、今度はもう長雨の気配です。
台峯歩きの今日は運良く曇りで、雨は夕方からだとの予報でしたので喜んで出かけたのですが、途中で激しい雨に遭ってしまいました。
そのことよりもまた別の悲しいニュースで、空よりも心が暗くなりました。
緑の丘が切り崩される事になっていたのが免れそうだと先日書きましたが、それはまだ建設委員会での決議で、本会議ではまだ決定されないことなど色々、今日出席してわかりましたが、また別の新たな問題が発生したことを、チラシで知りました。
大船から線路を曲がり、電車が横須賀線の北鎌倉駅にすべりこむすれすれの時、左手に(進行方向)見えてくる鬱蒼とした緑地、「好々亭の赤トンネル」と親しまれている「洞門山」」という〈この呼び方は知りませんでした)が、開発により中腹から上部8メートルあまり平に削り取られ、変化にとんだ軟質の崖も(いかにもこのあたりの地質が感じられて風情に富む)コンクリートの擁壁となり、赤トンネルもコンクリートで塞がれてしまうのだそうです。緑は跡形もなくなり、無機質でノッペラボーな台地が現れ、そこに3宅地が予定されると言いますが、2期工事を含めると10宅地となるそうで、土砂の搬出は小型ダンプ(このあたりは道が狭く大型は入れない。自転車ですれ違うのがやっと。車は一台がやっとのところ)1万5千台にもなるといいます。
この辺りは昔の風情がまだ残っていて、疲れて帰ってきても駅を降りてここを歩いていると、自然に生気が甦ってくる思いがします。柔らかな手触りで自然な曲線を描いた崖の岩肌とそれに被さるような緑の繁り、雨が降ってもここが雨宿りになる感じで、藤の花もきれいでした。またここにはお稲荷さんの鳥居と祠もあって、誰でしょうかちゃんとお供えもなされているのでした。これを崩しても罰が当らないのでしょうか。
ここはこれまでこの地を知る作家や映画人によっても愛されてきた風景です。
大仏次郎の御谷(おやつ)騒動(まだ保全の意識がなかった頃、緑地保全をお寺や文人たちをはじめ多くの人たちに呼びかけをした最初の運動として有名)の折、「鎌倉の玄関口」と表現した緑地、また小津安二郎の映画作品には、この辺りの風景が良く出てきます。
この近くに住んでいた高見順の随筆や日記にはよく登場してくるし、このトンネルを掘っている(確か赤トンネルは好々亭の主人が掘ったものと、私は読んだ記憶がある)場面もあった気がします。実はその高見順が自分が亡くなった後、残されたものが困らないようにと建てたアパートも、この地にあった風情のある木造建築で(私も住んでみたいと思ったくらい)、円荘(つぶらそう)と扁額が掲げられていて、自宅と同様見る価値のあるものでしたが、これは多分遺産相続の際やむを得ずでしょうが、売却され壊され、普通の住宅に分割されてしまいました。
赤トンネルを抜けると静かな八雲神社につづく細道に出て、それを渡った奥、裏山を背負ったところにあるのが好々亭という会席料理屋。3方を山に囲まれた広い庭を持った数寄屋造りの由緒ある店で、それだけ値も張るので私などはめったに利用しないけれど、庭を見るのは「どうぞ」と言う親切さで、梅の季節は見事で、別棟に円形の風変わりな凝った建物があってそこにはご主人の収集品らしい骨董や焼き物などもこれも無料で見せてもらうことが出来、わが家を訪ねてきた人には大抵そこに案内したりしながらも、経営も大変ではと心配してましたが、やはり懸念は事実になり、ごj主人も色々経営に努力されていたようですがとうとう廃業するらしく、それがひとつのきっかけかもと、思ったりもしました。
でもその廃業(そこを手放す)と、前面の緑地を切り崩すとは別だと言う事ですが。やはりどこか連動しているに違いありません。
その問題の緑地の地権者の名前を見て、あっと思ったのでした。そのK氏とは、この辺りの大地主の一人ですが、もう30年近く前、この地に始めてきた時、この居住区の上の山を大々的に開発して宅地化をする区画整理事業団と言うのがあり、それへの反対運動が行われていたのを知らなかったのですが、それに来たばかりの私達も巻き込まれ、近隣の人たちとともに2年ほどに渡って、集会から抗議活動、様々な行動をやった挙句、多少の譲歩(?)をさせたかもしれませんが、開発はなされました。それを思い出させられたのでした。その張本人の名がK氏だったからです。(もしかしてその息子かもしれません)
ですから、もうその運動の先は私には見えてしまうのです。
何度もいうようですが、それを反対する理由としては、狭い道路での工事は騒音や粉塵、また周りの住民の安全や行き来に迷惑だと言うことからしか、周りの住民は抗議できないわけです。
30年前の抗議活動も、開発事業団は、人の土地になぜ「いちゃもん」をつけるのか、それはけしからんという態度と意識でしかないわけですから、それが今もってつづいているのだと思わざるを得ません。
今日のラジオ放送を聴いていると、大林宣彦(映画作家)さんが、こういうことを言ってました。
映画を撮るとき、日本で少し前の風景が撮るのがとても難しいと。ヨーロッパでは、いやアメリカでも、携帯の宣伝などの看板を消すだけで撮れるのに、日本では少し前の風景が直ぐなくなり、すっかり変ってしまうと、むしろ江戸時代というように時代劇の方が撮りやすいと。
日本では直ぐ壊して新しくする、それが進歩という考えがまだ変らない。文化とは、遺す事ではないかと。
すこしこれについて喋り、肝心の台峯歩きのことは書けませんでした。これはまた改めて。

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