木下順二追悼公演『沖縄』を観る

ブログにもすっかりご無沙汰していました。
先日、民藝の『沖縄』を観ました。
東京裁判を扱った『審判ー神と人とのあいだ』と同様、亡くなった木下順二さんの作品ですが、これもまた日本人、というより本土人である私たちにとっては重たい問題を突きつけられるものとなっています。
日本の今の平和と経済発展は、この沖縄の犠牲というか、人身御供のような存在によって成り立っているということを、つくづく考えさせられる劇となっており、自ずと口が重くなってしまうのです。
この作品は、沖縄について調べられるだけ調べ上げた末、自分の観念で書いたということですが、観念劇という領域を超えた象徴性を持った、ギリシャの古典劇を思わせるものを持っていると私には思われました。
この劇作法は、有名な『夕鶴』や、平家の滅亡を描いた『子午線の祀り』などにも通じるもので、そこには幻想と現実が交差し織りなしていく、リアリズムを超えた舞台が展開していきます。
舞台は60年代の沖縄のある小島、本土復帰がなされていない時代です。主人公は、過酷な戦争体験を持つ、その島に本土から帰島したばかりの元教員の波平秀(日色ともゑ)、その沖縄のユタの系譜を思わせるその女性を軸にして、政治問題や米軍につくか本土の資本につくかの男たちの勢力争いなどが展開し、ただ一人の本土人、ヤマトンチューとして登場するのが元日本軍の兵士(杉本孝次)である。この日本兵に本土人の贖罪意識やまた狡猾さ卑小さを象徴させているところがあるけれども、結末はここには書かないが劇的な場面で幕が下りる。これも古典劇の作法を思わせる。
こういう能舞台を思わせるお芝居は、昼食後の午睡の時間にあたるとついうとうとしてしまうのだが、沖縄の深い森の場面となり、そこで繰り広げられる祀り、仮面をかぶった「男神」と「女神」と太鼓をたたいて歌い踊る群衆が出てくると俄然目が覚めた。夜中の12時に行われるノロの儀式など、そしてその儀式で次のツカサに選ばれようとする(と工作される)秀、それゆえに悲劇が起こるのだが、それがちょうどカタルシスのように、神話的な世界へと導かれる感じがする。洞窟の中から(このようなところから女たちは身を投げたのであろう)空を望むという舞台装置もあって。この結末は沖縄の、ひいては日本の未来のどんな展望を暗示しているのだろうか。
ここではただ沖縄を犠牲者だという立場だけを強調しているのではない。むしろ沖縄自身の問題として、「昇る太陽は拝む。が、沈む太陽は拝まぬ」や「ものくれる人、わがご主人」といった意識などをも、課題として突きつけているのである。
最近では教科書の沖縄戦での記述が書き直させられる動きがあった。また、昨日は憲法改正の国民投票法案が国会で成立した。民芸は少々真面目で面白みや娯楽性に欠けるところがあるけれども、「ドラマトゥルギーとは思想である」という木下さんの言葉を、一つのバックボーンとして持っている民芸は今の世の中、必要な存在ではないかと思った。

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