ドキュメンタリー『ザ・コーポレーション』を観る

これは全てがインタヴューによって構成された、怖〜い、怖〜い実話です。
2時間半の長丁場で、その事実や映像を追いかけるのに大変だったのにも拘らず、最後まで食い入るように観てしまい、時間を忘れるほどでした。
題名どおりこれは「企業」の話。「企業」が現代においてどのような存在であるかということを、とことん事実でもって追究した映画です。
これには原作があるそうですが「ザ・コーポレーション —わたしたちの社会は『企業』に支配されている」(ジュオエル・ベイカン/早川書房)、これは研究者向けに書かれた大学教授の著書で、そのアイデアをテーマにして、映画用に逸話やインタヴューで構成して一般にも分りやすくしたものだそうです。
カナダの男女二人の監督。スタッフには、アメリカ銃社会をえぐった「ボウリング・フォー・コロンバイン」や同時多発テロ問題の真相を描いた「華氏911」の監督マイケル・ムーア、また言語学者ノーム・チョムスキー、らが名を連ねています。
インタヴューの対象は、大企業家、政治家、政治・心理・哲学者、報道関係者、さまざまな分野の人間、産業スパイをも含めた人物たちで、その信念や意見の本音を聞きだそうと勤めたそうで、そこから自ずと浮かび上がってくる「企業」の姿とは・・・・。
人類の支配者は、昔は王や貴族、皇帝であり、近代社会では専制君主、独裁者であったが、今日では「企業」が世界の支配者となってしまった。企業の最終目的は、利益と市場シェアの拡大であり、その目的のために人間はモラルも思いやりも忘れ、ひたすらその現代の専制君主にひれ伏し、利益追求に邁進させられているという事実、それによって世界が動いていると言うことに慄然とさせられる。その裏側がこの映画では暴かれている。
考えてみるにブッシュが中東から手が引けないのは、石油という資源のためである。
昔は企業も王や皇帝など政治家に左右されていたが、今日では「企業」は、人と同様に人権と自由が与えられるようになった。「法人」という語で象徴されるように・・・。
「法人」は法が生み出した特別の存在である。しかも「人」と大きく違っているのは、不死身であること、しかもこれには感情も、政策も、倫理もないことである。ただあるのは『どれだけ儲けるか』だけであり、それを唯一の信条として、世界をターゲットにして自由に動き回るのである。それゆえ自分の利益のためには弱いものを踏みつけ、そのためには戦争をも引き起こしてもビクともしない。死の商人と言う言葉が昔からあったが、今日では売る物は武器とは限らない。
とはいえ近代社会は企業なしでは一日たりとも機能しないだろう。また我々はその恩恵を受けて生活をしてもいる。ただそれが知らぬ間に、いまやあまりに巨大な力と自由を得たために怪物化したという事実がある。それを見つめる必要があるとこの映画は警告している。
これを映画では、人間の知と技術によって作り出したドラキュラに喩えている。人間が快適な生活やその発展のために作り出してきたその企業が、怪力を持つドラキュラのように人間を支配しようとしているのだと・・・・。
歴史上封印された事実として、米企業が初期ナチスをサポートした件、戦争の筋書きを作ったこと、GMはオペルを、フォードもまた同様に自車を守り、コカコーラは特別に「ファンタオレンジ」をドイツ人のために作ってナチス御用達となり、IBMのコンピューターはユダヤ人強制収容所で大いに活躍したなど、戦後も責任を取られることなくその利益と自由を謳歌しているのである。
多くの挿話の一つに(日本の企業不祥事件もいくつか取り上げられている)「ボリビアの水道民営化を阻止した民衆の運動の事件」がある。
ある都市で財政困難なため水道事業を民営化したそうである。ところが谷川の水を汲んでも料金を払わねばならないようになった、というのには驚いた。当然、大規模な民営化反対の抗議行動が起こり、最後は取りやめになったというけれど。
民営化とは、公共機関を常に善良な人に譲るとは限らず、損得の競争の中に置くということ、損得を信条とした専制政治の中に置くことである。日本の今の民営化の流れの際も、このことを考えておかねばならないだろう。
この映画の結論として,「企業」を一つの人格としてみた時、今日の企業は
・他人への思いやりがない
・利益のために嘘をつづける
・人間関係を維持できない
・罪の意識がない
・他人への配慮に無関心
・社会規範や法に従えない
 以上の点において、人格障害<サイコパス> と診断を下す。
今毎日のように起こっている日本の企業の不祥事、重なる事故もまさにそうだろう。
映画の中の台詞に、奴隷制度の中でも全ての雇い主が悪いのではなくむしろ優しく思いやりのある主人も多かっただろう。しかし制度の中ではそれ以上どうしようもなく、制度自身が変わらねばならなかったのであると。すなわちドラキュラのような企業の姿を変えねばならないのだろう。
この映画を観ると少々絶望的になるが、この企業も元々は人間が造ったものである。この映画を観た人がこれらの事柄に関心を持ち、それに気がついてくれることに希望を託している。

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