「母たちの村」を観る

フランス・セネガル合作のこの映画を「岩波ホール」へ観にいった。感動的な映画であった。
いまだにアフリカに残っている「女性性器切除(女子割礼)」の風習に、一人の女性が立ち上がり最後には村の女たちがこぞって拒絶していく物語で、事実にも基づいている。
私たちには到底考えられず許しがたいこの風習については、ずいぶん前に読書会でも取り上げているが、最近もそれを拒絶してアメリカに逃れ、その体験記を著したと新聞に紹介されていたのを目にもしていた。その体験記によると、その有様は「4人の女に押さえつけられて、ナイフで外性器をそぎとられる。麻酔も消毒もない。両足を閉じた格好でぐるぐる巻きにされ、傷口がふさがるまで40日間、ベッドで過ごす。ショックや感染症、出血多量で命を落す人もいる。同一視されがちな男子の『割礼』とはずいぶん違う」とある。
この風習は50余りあるアフリカの国々のうち、現在でも38カ国で行われているという。行わなければ結婚も出来ず差別される。こうした伝統はアフリカ社会における男性優位と一夫多妻制を維持するためのものと思われるが、女性の中でもそれを宗教的伝統として是とする者もいることは、長い歴史を持った制度だけに仕方ないことである。(中国で行われていた纏足でもそうである。これは男性が女性の足を性的な愛玩物としたいがため、また愛妾たちに逃げられないため、女を閨の中に閉じ込めておきたいがために作り出した男性の美意識によるものであって、それは女性の美意識まで影響しているのである。天下の美女楊貴妃も纏足をしていた。)
この「女性性器切除」(略称FGM)廃絶は「世界女性会議」にも持ち出され、支援運動も広がっている。
さて前置きが長くなったが、この舞台は西アフリカの小さな村が舞台。そこでの風景と村人たちの日常生活が映し出されているので、アフリカのことはほとんど知らない私には新鮮で楽しかった。緑は豊かだが乾燥した黄色い土地におとぎ話の村のような土造りの家々、円筒形の貯蔵庫、中心には大きな蟻塚とこの土地独特のハリネズミのように黒い棘を出した白い土造りのモスクが象徴として存在し、鶏の声がして牛や犬も人間と共にうろうろして、その中で女たちがいそいそと働き、子どもを育てている。女たちが着ている物は皆カラフルで、村に一つの露天の店先には色とりどりのjシャツにまじってブラジャーやパンティが翻り、薬缶までもがカラフルな縞々なのだった。
その村に、かつて自分の娘に性器切除を拒否した女性(コレ)の下に、それから逃げ出した女の子が4人保護を願って頼ってきたことから端を発する。その行為を「モーラーデ」と言い、原題はそれである。それはちょうど日本で言えば駆け込み寺のようなもので、有力な人のところに駆け込んで保護を願い、それを受け入れれば、それが始まり、入口に綱を張り結界として、そこから出なければ、どんな有力者も手が出せないという、古い掟があるのである。しかし女の身で、第二夫人、しかも夫の旅行中にそれを始めるのは決死の覚悟がいる(第一夫人もかげながら支援するが)。
そして最初は割礼を行う女たち、男たち、最後は長老や夫の兄たち、また少女たちの親たちからでさえそれを解くようにさまざまな圧力がかかる。圧巻は帰ってきた夫が、最初は理解を示しながら一度も女を殴ったことがないという優しい人柄であるにもかかわらず長老や兄に責められ、「それは我々の名誉を汚すものだ、夫として権威を取り戻さねばならない」と言われて鞭を手渡されたとき、初めてコレに鞭を振り上げ、綱を解くと言葉を発するまで叩き続けるところである。
コレは最後まで声を上げない。次第に男たち(割礼行為の女を含む)と女たちの対立がくっきりしてくる。
黙っていた女たちがいっせいにコレを励まして声を上げるのである。そうしてこの後全員で長老の前に押しかけて、今後は全員拒絶すると宣言するのである。
いま大筋だけを辿ったが、コレが割礼させなかった、年頃の娘と副村長のフランスから帰ってくる婚約者(彼我の落差などもあって面白い)の婿の話や、露天商と村人、特に女たちとのやり取りやら、女たちから情報の元であるラジオを全て取り上げて燃やすこととか、いろいろ話はあってドラマとしても面白かったが、はじめはこの映画は女性の監督だと思ったのに男性で、しかも15本も作品のある85歳だというのも驚きであった。(ウスバン・セルベーヌ監督はアフリカ映画の父といわれ、あらゆる権力と戦い、常に勝ち抜いてきた英雄だと尊敬されている人だとのことである)
このような映画なのでいろいろ感じたこと考えることもあるがここでは最後に特に感じたことを少し。
先ず、映画では女たちの働く姿がいろいろ出てきたが、そのとき男たちはどうしているのだろうと思った。
もしかしてモスクで祈るか、自分だけラジオを聴くか、パイプをふかすか・・・?
するとパンフレッドにちゃんと書いてあった。アフリカでは女性の方が多く働き、男性は畑用の土地を開墾すると、後はせいぜい除草を手伝うくらいでその他はほとんど女性によってなされているのだという。子育てから力仕事まで全部。女性は一日中労働し続けで、だからそんな女性を多く持つことが富につながっているのだという。多妻を持つのは経済のためなのだ!そして女性性器を切断して性交を苦痛なものにすれば、浮気を防ぐだけではなく、快楽を求めることも出来ないので労働に専念できる!何という巧妙な策略だろう。大昔からそれは男の知恵だったのだ!
次に、人間らしい心を持ったコレの夫が、鞭を手にして妻を打擲する決心をしたのは、兄から言われた言葉、男の権威、名誉を汚すことを許してはならないと言う一言である。すなわち、これこそが人と人を戦わせる言葉なのではないかと私は思い、これこそが今もって戦争へと男を駆り立てるものではないかと思うのであった。いまアフリカでは部族紛争が絶えない。いや中東然り、あらゆるところに・・・・。そういう男の原理で国も動いているような気がするのである。
最後に「アフリカは『母性的』だと思います。」という、監督がインタヴューにこたえている内容のなかで、心惹かれた部分があったのでそれを紹介することで終わることにします。
『アフリカ人男性は、母親という観念をとても大事にします。自分の母親を愛しますし、母に誓いを立てます。また、母親の名誉が傷つけられてしまうと、息子たちは自分自身の存在価値をも傷つけられたと感じるのです。アフリカの伝統によると、男には本源的な価値はなく、母親より価値を与えてもらいます」
人類のルーツを探るとアフリカの一人の女性に辿りつくと、どこかで見た気がする。今こそ人類はそういうアフリカ精神の大本を思い出すときかもしれない。
ところでサッカーのWCでフランスのジダン選手がイタリアの選手に頭突きをした事件、それは母親と姉を侮辱されたからだと言う。ふっとそのことを思い出してしまった。

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