新潟の「大停電」から「マッチ」を思う

日本海側が依然として異常な大雪に見舞われているのに、今日もここは、からからの晴天続きである。
なんと自然は不公平なものだろう。大変だろうなと思ってもどうすることも出来ない。
先日新潟で雪による大停電が起こった。一番長くて31時間、65万戸に至ったという。
さっきFMの「日曜喫茶室」(今日はクリスマス特別番組で、常連4人からの贈りものと題した雑談)で安野光雅さんがその停電に触れ、そうなったらこの寒さの中どういう風に暖を取ったらいいか考えてしまったという。懐中電灯、マッチでさえ手元になくて・・・・という言葉に触発されて、「マッチ」についてここに書きたくなった。
寒中の暖について言えば、いまやガスストーブは少ないのではないだろうか。石油は私も使っているが考えてみれば温風式なので、発火には電気を使っているのでダメである。湯たんぽは、最近になって重宝なことが分り一昨年まで使っていたが、羊毛シーツにしたのでやめてしまった。残るのは木炭、炭である、幸い最近火鉢に炭の生活を愉しんでみようと思って、しばらく楽しんだが、やはり風流には余裕と忍耐が必要で、元の簡便な暮らしに戻ってしまった。しかしまだ炭は残っているので、電気もガスも止まってしまってもそれで一応は煮炊きもでき暖もとれる・・などと思ったりした。
ここで「マッチ」に戻るのだが、今私はマッチが買えないでいる。スーパーには確かにあるにはあったが、大箱しかなく、いわゆるマッチ箱のようなという比喩にも使われる小箱のがないので、コンビニのほうが置いているかと思ったが、2、3軒入ってみたが置いていない。線香や小さな蝋燭は置いてあるのに、なぜ、と問いただしたのであるけれど・・・。ライターで火を・・ということだろうが、仏壇や神棚の前でライターは似合わないだけでなく、それは丸々燃えないごみになる。
折りしもクリスマス、その蝋燭にはやはりマッチが似合うはずだ。「マッチ売りの少女」などはファンタジーの中だけだけれど、ライターでは幸福な幻などは見られない。ライターは点火という一瞬の機能だけを果たすが、マッチは燃え上がり、炎が揺らめき、それが次第に燃え尽き、黒く灰になって残骸になって横たわるドラマがある。
うちにはマッチは置いていませんよ、と何でもなく言い放つコンビニの店主に、心のうちで腹を立てながら帰ってきたのであった。

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