隣組について

今日は2ヶ月に1度の町内会クリーン・デイであった。
でも朝8時に清掃の準備をしていくのは、ちょっときびしい。
今のところ私は毎朝のように道路の落ち葉を集めているのだけれど、これは自分のペースに合わせてやっている。しかも今朝は一番の寒さになった。どうしても皆より遅れてしまう。
次回は冬場の2月だけれど、厳寒の時期、そのときはもう冬枯れで落ち葉もないわけだから、必要ないのではないかと、大きな声で言ってしまった。
もちろんこれは自主参加で、都合があれば出なくてもいいし、ぜんぜん出なくてもかまわないのだ。しかしそういうわけには行かない。また出ないとちょっと言い訳をする。
確かに共同で作業をするのはいいことだ。私など植木を切ってもらったりして助けられるし、近隣の助け合いにもなる。
しかし「隣組」について、戦時下を少し知っている私には警戒心がある。
昨夜テレビで山田太一のドラマ「終わりに見た夢」を見た。現在を生きる平均的な家族4人と友人親子2人が、タイムスリップして昭和19年に移されてしまい、そこで生きるという設定である。終戦間近の餓死寸前の物不足の生活、その日常や不便さは、多少はその頃のことを知っている私にも到底耐えられないだろうと思った。しかしもっとも耐えられないであろうと思ったのは、そういう物質的なことより、人間一人一人に覆いかぶさる監視の目である。それは隣組という、細胞のいたるところに張り巡らされている毛細血管のような役目を果たしている存在があるためである。それをバックアップしたのが軍である。
それゆえに、いろいろ生きる知恵をしぼって何とか一家で暮らせると思ったとたん、その網にかかって逃げ出さねばならなくなり、転々とする。
今無残な児童の殺害事件などがあって、近隣の目や協力が必要になっているけれど、それが必要以上に、異分子を排斥する形で行われると危ないなあと思う。犯罪のためならば有効であるにしても、思想の取締りというようなことにも、すぐ当局はその網を使ってくるのだから。
戦時中、「とんとんとんからりと 隣組・・・♪」という歌がありましたよね。
でも今日は寒いので、そそくさと作業を終えて、一時間もしないうちに皆引き上げてしまいました。
めでたし めでたし。

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