歴史について(1)

このところ秋晴れのお天気が続きます。「書物など捨てて巷へ出よう」と寺山修司は言いましたけれど、パソコンなど閉じて紅葉の林を散策しようと叫びたくなります。でもまだこのあたりは少しだけ色づいた感じでしかありません。
歴史について、続けます。小森さんの講座に出ていて感じたことは、いかに私が近代から現代にかけての歴史を知らないかということです。点としての事実は多少知っています。でも日清戦争がなぜ起きたか、またその結果は?というようなこと。そのとき莫大な賠償金をせしめたために一種のバブル景気になったことや、その後の日露戦争の時、大国ロシアに勝てるはずはないのに、各国の外交上の思惑もあって、辛うじて勝利を収め、賠償金などは望めべくもなかったのに(負けないだけ運がよかった)、前回のことで味を占めたせいもあって国民は承知せず(もちろん犠牲が大きかったので)、暴動まで起こったことなど、ちゃんとした因果関係としてはほとんど何も知らなかったのです。
もちろん私の不勉強、無知のせいでもあります。しかし考えてみると、高等学校までの学校教育における正規の歴史の時間にそんなことをちゃんと習っただろうかと、振り返ってみて思うのです。私たちの年代はまだ予備校などはなく、受験競争が始まろうとした頃ですが、歴史の時間は近代史になると時間が足らず、ほとんど打ち切りになってしまっていました。
歴史の時間は大体太古から始まります。それはロマンの世界です。確かに面白いにちがいないのですが、今と関わりのある歴史は、少し前の現代、近代です。それはもう歴史になっており、それは客観的な物となり、文献でも正疑が確かめられるものです。それを知らないで、今では存在しなくなった武将たちの国取り合戦や、弓矢や騎馬による合戦の模様や作戦を推理と架空をまじえてあれこれしたとしても、経営者の人生訓として少しは役に立つとしても、現実の政治や外交を考える上で、ほとんど役に立ちません。それは物語にすぎず、歴史ではないのです。
学校教育でちゃんとした歴史認識を育てるためには、歴史を現代からはじめ、近代、近世、中世・・・へと遡っていくのはどうだろうと思ったりします。そうすれば、今の政治のあり方も、また外交や憲法問題も、それぞれが考える下地が出来てくるのではないでしょうか。私自身を考えてそう思いました。
それがないから、日本人に神話を与えようとする、ロマンに満ちた歴史教科書が登場してくるのだと思います。

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