「嘔吐」を思い出す

今このブログに向かっているが、あまり良い気分ではない。16歳の少女がタリウムという毒薬を使って母親を毒殺しようとしたらしく、しかもその経過や写真までブログに出していたという報道に接したからである。おぞましいというか、いやな気分というか、生じた気持ちを表現しようがない。ブログを書く気持ちにもなれなかった。ブログそのものを閉めてしまおうかと思う気持ちにもなった。
そのうちこの「嘔吐」を思い出した。サルトルの実存主義を言う時によく持ち出される有名な作品である。うろ覚えであるが、図書館の本を順番にすべて読んでしまったというような男が(これは記憶違いかもしれない)、なんとも表現しがたい木の根っこを見たとき、嘔吐しそうになる。名づけようもない、奇怪で、混沌とした状態に耐えられなくなるからである。神は死に、ブルジョア的秩序も破られた時、そこに出現するもの、それが実存だという風に理解したりしたものだったが、西洋人でもなくまたキリスト教の信仰もない私にとっては、ただ言葉上の理解に過ぎなかったと思う。
もしかしてこういう感情、不愉快さかもしれないなと思った。同級生をナイフで殺害した少女も、パソコン上で自尊心を傷つけられたのが動機だという。今子どもたちの犯罪は多かれ少なかれパソコンが絡んでいる。
そういう犯罪に限らず、ここ数年世の中の経済という実業の世界をはじめとして世の中が大きく変わっている。教育、政治の世界までもそれによって変貌しているのではないだろうか。通信システムの変化にとどまらず、それらが世の中を根元から変えつつあり、産業革命が世界を大きく変えたように、いやそれ以上の見えない力でもって変えつつあるのではないだろうか。だからこの嫌悪感、嘔吐感は少女やブログに対するというより、自分には理解できない、得体の知れない事柄が生じているのではないかという思いに対したものではないかーと、言葉を使って、気取って言えばそういうことになる。でも確かにこのニュースは私に、ブログに対するおぞましさを感じさせたということだけは事実である。

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