ソラリスの考える海は地球の冬の朝のことを考える

男と女のことを考える、ふーんというふうに不思議そうに考える

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タルコフスキーの映画「ソラリス」2

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アルヴォ・ペルト「タブラ ラサ」この世のものとも思えぬ…

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最近ブレンデルの弾くシュウベルトのピアノソナタが好きになりました。

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鈴木ユリイカ「海のヴァイオリンがきこえる」

若い役者、紗桜さよとコラボレーション、
可知日出男作曲の即興的モチーフとEn.Green4のメンバーが彼女の読みを盛り上げる。

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もし あなたがめちやくちゃに幸せになりたいなら

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角田光代について  「世の中変わった」

「世の中変わった」とよく言われるが、一体どこが変わったのかよくわからない。とにかく誰もが生きにくくなったという。若い人も年老いた人も誰ともわからず、そういうのを聞いてから、ずいぶん時間がたったように思える。こういう現象を詩に書くのは大変
難しいと思う。ところが最近、この作家の小説を読んで、私は度肝をぬかれてしまった。
ここ2ヶ月ばかりは、角田光代という1967
年生まれのこの若い小説家の本を夢中になって読み、そして圧倒されました。
どこがどうということができないのですが、やはりすばらしい。つまり、小説を
読んで、少しすると、「あっ、これ、わたしのことだわー」と思ってしまうの
です。そして、登場人物が困難な立場に追い詰められると、もう怖くで読んで
いられないような気持ちになるのです。つまり、この頃世の中変わったねと思うような生き方をしている人達が次々と出てきて、困難なめに遭うのです。
たとえば、商店街、ショッピングモール、新興宗教、主に東南アジアへの旅行、
結婚して子育てをしながら再就職すること、旅行から帰って来るとどうするか、
子どもの受験地獄、女が子どもを産むことと産まないこと、結婚することとしないこと、カードで借金することの地獄、高校のころから現在までどう生きてきたか?そういうことを次から次へ書いているので、何十冊も図書館から借りてきて読むことができます。そして、わたしはただただ感心して読みました。
つまり、この作家は大変現実的なのです。そして、少し退屈なくらいの世の中にいきている私たちを描くのです。ひどく平凡な人々がでてきて、少しも偉く
も魅力的でもないのです。でも、この偉くも魅力的でもない人々の物語を読み
終えると誰もが一生懸命生きていることに感動するのです。全くすごいですね。
でも、こういうことは詩に書きにくいのですが。
      

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笠間由紀子「書きとどめて」  詩を好きになるための理由はない

書きとどめて   笠間由紀子
私が ここにいた と。
そんな物語を語ってください
書きとめてください
夕方の涼しい風の中を
歩いて
門から したたりおちる
白い花に見とれたり
古い歌を小さく くちずさみながら
思いがけず 道にまよったり
まがり角で
子供が しゃぼん玉とばしているのを
楽しくながめて
道にまようのも  時にはいいねと笑いあった
私が そこにいたと。
万年筆 鉛筆 ボールペン パソコン
それらのどの文字より
私たちは はかないから。

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「タブラ・ラサ」――アルヴォ・ペルトの音楽に

タブラ・ラサ     ――アルヴォ・ペルトの音楽に
わたしたちは半分砂に埋もれた住居に住んでいた
毎朝わたしたちは水を求めて砂を掘ったり
わずかばかりの野菜をつんで食したりしていた
毎朝わたしたちは散歩に出かけるのだった
どこへいっても崖や砂が襲いかかり
路を歩く度に少しずつ少しずつ停止しなければならなかった
わたしたちは数百年もの間ひとりの人に会いたいと思っていた
誰もその人を見た者は居なかった しかし
その人がどんな人であるかわかっていた
そして 毎日 その人に会うのだった
今日も路が途切れたところで皆の息が苦しくなった
路はもうなかった しかし 空が割れて
光りがふりそそぎ その一つの穴から地響きがして
よろよろとひとりの人が現れた
ああ と皆が叫んだ
地響きが続き 海も街も森もなくなりつつあった
もともと何があったかわからない
一つの穴からほのかな光りにつつまれた人が出てこようとしていた
しかし 誰であるかわからなかった
神という人も
弥勒菩薩という人もいた
おかあさんという人も
パパという人も
娘という人も
未来のともだちという人もいたが
誰も明確にいうことができなかった
ああ 皆がいうと胸が熱くなった
まるで原爆のような光りのなかで
一瞬 会いたい人に会ったのだ
それから 永遠にちかい静寂がやってきた
光りは消え 崩れかけた崖と
砂だらけの路があった
そうして皆は今日一日を過ごすのだった

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左子真由美「愛の動詞」  ことばってなあに?

愛の動詞        左子真由美
■Manger
食べること。46億年のむかしから、何かは何かを食べ続けてきた。何かは何かの餌になってきた。食べることは祝祭。食べることは弔い。いのちがいのちを食べる。大地はいのちを吸って哀しく、やさしく熟れていく。地球はまるごと美しい果実。愛することは食べられること。食べられてもいいと思うこと。マンジェ
。いのちを差し出すこと。
■Oublier
忘れること。雨傘を。本を。サラダに胡椒をいれるのを。約束の時間を。 忘れたものはどこへ行くのだろう。どこかに大きな忘れものの箱があって、その中にみんな詰まっているのかしら。ちっちゃな部屋から
飛びだしたものたち。 入りきらなかった思い出。みんなみんなどこに? ウブリエ。まだ雨のしずくがしたたっている雨傘。
                        ※
 私もことばについての詩を書こうとしたことがあります(でも、実際にはまだ書いたことはありません)。
 そして、そういう詩を何度も読んだこともあり、その度に「なんて上手なんだろう!」とか「ぜんぜんつまらない!」とか反応してしまいます。
 ということは、私にとって楽しいことです。何故かというと、ことばについての詩は純粋な遊びのように
感じられるからだと思います。ちいさな子どもが積み木やクレヨンで好き勝手に遊ぶように私もことばで
遊びたい。
 ところで、「愛の動詞」から二つを、MangerとOublierを選びましたが、この二つは特に最近の私にとって大変身近なことばだからです。私は多分四六時中、これらのことばを使って遊んでいるのだと思います。
 それにしても遊びというのは子どもでも私でも随分自由にしてくれるし、遠くまで連れて行ってくれます。
 Manger〈食べること〉、あれやこれや遊んでいって、〈いのちを差し出すこと〉となると何とも自由な感じがするのです。
 Oublier〈忘れること〉、あれを忘れたり、これを忘れたり、まるで私の毎日のようです。そして、最後に
ウブリエ。〈まだ雨のしずくのしたたつている傘〉となると、時間というものを充分に感じるのです。
 はじめに、遊ぶと書きましたけれど、この詩人が毎日を一生懸命生きて、ことばを大切にして、ことばを使って考えたり、悩んだりしているのが、とても嬉しいというか、好ましく思えるのです。

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