塩田禎子「物語山」  山登り

物語山  塩田禎子
ひたすらに続く上りのの道に
からからと瓦のような石が鳴る
砂岩で埋めつくされた山
前を行く人と後ろからくる人との
足元が奏でる響きのなかに
むかしの悲しい物語が聞こえる
豊臣氏の小田原城攻めの時
前田軍に滅ぼされたこの地
落ち武者たちは山に逃げ込み
岩に登り
蔦を切り落とし切り落とし
つぎつぎにいのちを絶ったという
長い林道を歩いて
上りの道に差しかかつたとき
見上げる頂の少しそれたところに
四角い形の岩が白くそびえるのを見た
この土地の人の言う「メンバ岩」の
なまえの響きと重なって
胸に刻み込まれた物語
剥がれ落ちて
薄い一枚になった石のかけらを
手のひらに乗せ
指で軽くはじいてみる
メンバ岩への道はいまも途切れたまま
かすかな石の音がする
  注 物語山…群馬県下仁田町。
    メンバ…メンベともいいまないたのこと。
  
   ※
 懐かしい感じがする。
 それがこの詩全体から受けた私の印象です。
 素直で率直な感じがすると言っていいと思います。
 この詩人にとって山に登ることと、その山について詩を書くことはおなじようなことではないかという感じがします。
 山に登るのは体にも心にも良いことであろうと思います。
 そしてこの詩人にとって詩を書くことは全くそれと同じようなことではないかと感じます。
 それがこの詩が自然であるとか素直でとかというふうに感じられた元ではないかと思います。
 
 私も詩を書き始めたばかりの頃はこんなふうに詩を書いてきました。でも、いつのまにかここから離れてしまったような気がしてなりません。
 実はそのことに気がついて、時々この場所に戻ろうとすることもあります。でも、なかなかうまくいきません。
 それは書いている詩の内容やテーマが深く複雑になったからということだけではないと思っています。
 この場所を離れては詩は存在しないのだと思います。この詩の内容はある意味ではたわいものないものかも知れませんが、それにもかかわらず、私には響いてくるものが
あります。

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北川朱美「電話ボックスに降る雨」アリスの電話ボックス

電話ボックスに降る雨  北川朱美
厨房で
一心不乱に料理を作る人のうしろ姿を
眺めていた
その人は
スープを素早くかきまわしかと思うと
キャベツを刻み
熱くなった油の中にパン粉をつけた魚を入れると
流しに走って皿を洗った
それはまるで
アンデスの祭りのようだった
気に吊り下げた鉦を鳴らしたかと思うと
足元の壺を叩き 虎の骨を打つ
――バッハもモーツアルトも
  今より半音低かったんだよ
  時代に引かれて高くなってしまった
そう言った人は 何度も携帯電話が鳴り
その度に私たちは
とつぜん電源を引き抜かれた機械のように ちぎれて
中空をさまよった
たくさんの鍋や皿がぶつかる音が
細かいちりになって舞いあがり
世界わ覆っていく
いつだったか けんか別れした人に
公衆電話から電話をかけたことがあった
長い沈黙のあと彼は言った
――今、どこにいるの?
私は海に降る雨のことを思った
音もなく海面を叩いて
魚たちにすら気づかれぬ雨
名前のない場所のまん中で
耳から 何百年も前の音をあふれさせて
遠い人の声を聞き取ろうとした
    ※
 何回かこの詩を読んで、私の記憶に残ったのはタイトルの<電話ボックスに降る雨>
と<私は海に降る雨のことを思った 音もなく海面を叩いて 魚たちにすら気づかれぬ雨  名前のない場所のまん中で 耳から 何百年もの前の音をあふれさせて  遠い人の声を聞き取ろうとした>です。
 はじめに<電話ボックスに降る雨>ついていえば短編小説のタイトルのようでもあり、また懐かしい映画の一シーンように感じます。
 なにかしら、毎日の日常世界よりもちょっと遠くにあって、しかも妙にリアリスティックな感じがします。
 これは、私を誘うようです。そして近づいていくと、すうっと遠ざかる。もしかしたら、こういう場所は本当にあるのかも知れません。
 街の中に、あるいはレストランの片隅に、あるいはあなたの心の片隅にも。それをじいっと眺めていると、ますます吸い込まれ、遂には名前もない場所のまん中までいってしまうのかも知れません。そこでは遠い人の声が聞こえてきます。
 もしかしたら、日常世界のなかでは本当の聞きたい人の声はこんなふうにしか聞こえて
こないのかも知れません。
 ところでちょっと飛躍しているかもしれませんが、私の大好きな芭蕉の句のなかの一つに
  さまざまなこと 思い出す 桜かな 
 というのがあります。この句を詠む度に桜の花の散る向こう側で、人の声が聞こえてくるような気がします。
 そして、私は思います。<電話ボックスに降る雨>と<さまざまな桜>はアリスの穴とつながっているのではないかと思うのです。

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村野美優「住処」 小さな穴の発見

住処   村野美優
壁や石垣のあいだに
ぽつんぽつんと空けられた
水をだすための小さな穴
プラスチックや煉瓦でできた
それら小さなトンネルのなかを
覗いて歩くと
小石や砂や枯葉が
うっすらと溜まっていたり
菓子の袋や吸殻が
押し込まれていたり
倒れた植木鉢のように
カタバミやハコベがあふれ出ていたりする
今日
知らない家の石垣に
素敵な穴をひとつ見つけた
なかにエメラルド色の苔が生え
その上に無数の泡がきらめいていた
そのきらめきを胸にしまうと
カニのように
わたしも自分の住処に戻った
   ※
 愛であろうと、詩の方法であろうと、「小さな穴」であろうと、その人が発見したの
なら、その大事さは変わりない。
 私はこの詩を読んで、そのことがよくわかりました。それと同時にこの詩がとても好きになりました。
 子どもの頃、何度かこれと同じようなことを経験したのを覚えています。その時のなんともいえない満足感もまだほのかにではありますが覚えています。
 これは発見ということだろうと思います。発見というのは、愛であろうと詩の方法で
あろうと、相対性原理であろうと、発見というのは自分を発見することだと思います。
 この詩が私にそれを教えてくれました。
 すべての発見はこの詩のように「小さな穴」の発見と同じものではないかと思います。なぜなら、自分を発見し、自分と出会うことは最大の幸せだからです。私は発見とは幸せであるということに気がつきました。
 ランボーのヴォワイアン(見者)について、時々私なりに考えますが、幸せになる一つの方法といってもいいんじゃないかと思います。穴を見つけたときに、自分は生きていると思ったに違いない。しかもそれがなんと偶然に起きた、それが私はとても好きです。

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筏丸けいこ「私は 子供のようになるときの」面白いものは不思議である

私は 子供のようになるときの   筏丸けいこ
母が好きだ
なにかエキゾチツクな木が
枝をのばして
欲求をもつときの
はっきり あなたが 母だと 思えないとき
いったい あの発光する都市で
眠りかかった葉っぱは
その内部に 岩を支え
誕生と 死を 思い出させるのか
母よ
うつろな太陽に ほほえみかけてくれるな
急流
母という 表面に充満する 素直
    ※
 私が面白い詩の条件の一つは、何故この詩が面白いのかわからない、この詩のどこが
面白いのかわからない、それにもかかわらずこの詩は面白いというのがあります。
 
 さて、この作品はまさにその条件にぴったりの作品です。
 私は初めてこの詩に出会ったときから、とても面白い、新しい詩だと思いました。何度か読んだいまでも同じようにかんじます。
 けれど、何故面白いか、どうしても私にはよくわからない。うまく説明できない。こうなると、これは本物だと思わずいいたくなつてしまうのです。
 ただ、この詩に私が感ずる特別のことがあります。それは読む度に、詩のほうで私に
何かしら合図を送ってくるような感じがすることです。
 それはあたかも小さな生きもの、けれども宇宙に繋がる生きもの(カフカが見たオドラテク)のようで、その触覚なのか尻尾なのか、わからないけれど、ぴくぴくと動かして、私に合図を送って
いるような感じがします。
 たとえば<枝をのばして 欲求をもつとき>とか<誕生と 死を>とか(どの連のどのことばでいいし、行間でもいいのですが)私がこの詩を読む度にぴくぴくと合図を送ってくるような気がするのです。
 どうやら、この詩のことばたちはいままでの詩のことばよりも、はるかに自由なのだと思います。詩からも、この詩をつくった詩人からも。
 これは、もしがしたらすべての詩人たちの夢かも知れません。こんなふうに、ことばと自由に付き合えたら、ほんとうに面白いと思います。
 

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クノップフの『見捨てられた街』とブルージユが繋がった

ベルギーの象徴派のフィルナン・クノップフと画家の画集を小柳玲子さんが出版しているが、この「見捨てられた街」という絵は「死の街」というタイトルであったこともあった。この絵でいちばんはっとしたの人が街に誰も居ないということもあったが、台座の上に立っていた銅像もなくなり、海が静かにおしよせてきて、ただただ
静かになっていくということだったと思う。こんな絵をだいぶ若い頃見て、ほんとに怖かったのだ。今はこんなものを見てもそれ程怖くはなくなったように思える。なぜなら、死でさえ、現代は静かではなくなったように思えるからである。もしかしたら、死はもっとにぎやかななもので、少しも美しくもないかもしれないからである。どうしてか、私たちは死の静けささえ失ってしまったかも知れないからである。たまには過去のことも確認してみるのもいいかもしれない。

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松田聖子「ブルージュの鐘」

ブルージュとは橋のこと、ローマ時代からの名前、BRUGGEだそうです。中世からの古い町で「屋根のない美術館」ともいわれる。いまは世界遺産になっていて、観光化しているらしい。

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マラルメ「ベルギーの友の思出」  石に刻むように

ベルギーの友の思出  鈴木信太郎訳
幾時もまた幾時も、風に揺めくこともなく、
殆ど香の色に似た 古めかしさが 悉く、
石洞の家が一襞一襞と衣を脱いでゆく
忍びやかだが眼に見える 古めかしさを
宛らに(さながらに)、漂ふ、そのさま、新しく惶(あわただ)しくも
契られた私たちの友情の上に 昔の香油として、
(私たち、満足し合ってゐる太古悠久の民の幾人)
時間の寂(さび)を注ぐのでなくては何の詮もなかろう。
永久に凡庸でないブリュージュの町、白鳥が點々と
游いでゐる 死の澱む運河に 黎明を積み重ねる
この市(まち)で、邂逅した おお 懐かしい人々よ、
白鳥の鼓翼(はばたき)のやうに、白鳥ならぬ他の飛翔が
忽然と精神の火花を散らしてゐることを示す これらの
子らの誰かを、厳粛に市(まち)が私に知らせた時に。
 ※
 昔、マラルメは嫌いだった、それなのに「詩は話しことばのようでも、書きことばのようでも、歌のようでもあり、しかも石の刻まれたことばのようでもあるのだ」と誰かにいわれたとたん、どうしてもマラルメが読みたくなり、読んでも、私の知っている詩
は見つからずはなはだ困った。でも、まあこの詩はわりあい好きだつた。

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クローディア・エマソン「レンジャック」木村淳子訳 単純なこと

レンジャック  クローディア・エマソン
シダーレンジャックが 落ちたのだろう
 あなたには見えない巣から
  だからあなたは鳥を助けようと
家に持ちこんだ。キッチンを鳥かご代わりにして
 私たちはこおろぎを与えた。
  バス釣り用に箱で売られているものだ。
鳥は幾日かの間 食器棚にとまっていたー
 その口は飽くことを知らない食虫花ー
  動かない天井の扇風機へ、
隣室に飛ぶことに気付く前は、
 私たちは何週間も羽ばたきを聞いて
  暮らした。私はくちばしの立てる
音になれた。肩に軽く触れる
 電気のような、ビリッとした
  感触になれた。
鳥の恐れるものなどなかったのだろう。
 レンジャックは私たちをそのまま受け入れ、
  私たちと一緒に抑圧された空と
ガラスに覆われた明かりと、狭い階段を受け入れた。
 だから私たちが放してやると、鳥は昔の空に
  戻ることを拒んで、きっかり一ヶ月
屋根の上に聳え立つヒッコリーの木に
 とまっていた。私たちはそれを養ったのはなぜ、
  私はあなたにたずねた。
異界に落ちた何を私たちは助けたのだろうと。
 レンジャックは私たちがつかの間暮らしたあの部屋で
  自分は死んだと思っていたかもしれないのに。
Claudia Emerson (1957-)
Waxwing
The cedar waxwing had to have
fallen from some nest you couldn’t
see, so you bought it into the house.
to save it. We fed it crickets
sold it. We fed it crickets
the cage we made of the kitchen―
where the bird sat on the side board
for days ― its mouth an insatiable.
urgent flower ―before findinng flight.
the stalled blade of the ceiling fan.
other rooms. For weeks we lived
with the sound of wings, I gree
accustomed to the billing-purr,
the feel of an electric, furious
linghtness clinging to my shoulder―
what it should have feared. The waxwing
accept us as given. and with us
our seized , repressive sky, glassed
narrow starway. So when we let it go.
when it refused the atavistic
sky, remind instead for one full
month in the hickory tree that loomed
over the house, I asked you why
we’d fed it. what had we saved
for a world so alien, the waxwing
must have believed it had died in those rooms
where for a while we went on living?

誰かと話していたとき、一体私はどんなときに、どんな作品に、どんなふうに惹かれたときに、この作品は好きだとか、好きでないとか、いいと思うとか、あんまり感じないとかと言うのだろうと思った。たとえば、私はあまり、俳句と短歌がわからない。つまり
ある程度は感じられても、どの作品がいたくいいと思い、それからそうでもないのか、わからない。つまり、芭蕉とか万葉集とかの他に、現代の俳句や短歌はどれもこれもおなじように読めてしまうのである。
結局、詩や音楽や写真ゃ絵画のばあい、何度も何度も繰り返して読んだり、聞いたり、
見たくなる作品が私にとっていい作品なのである。この単純な方法はかなり、私を自分で自分を納得させるいちばん良い方法だと考えている。

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中村安希『インパラの朝』 図書館の貸し出し36人目

 図書館の貸し出し36人目でようやく借りてきました。噂に違えず、すばらしい本でした。648日もかけて、ユーラシア、アフリカを横切った記録です。お金がなく、すこし病気で窓から眺める風景はよわよわしい木が一本だけで、たまらない暑さだけでは新しい詩を書こうにもなかなか書けないだろうと思っていたら、頭の後ろをがーんとなぐられたような衝撃でした。たった一日で読みあげました。特にアフリカがよかった。
 「一面に広がる草原に、わらの家が建っていて、小さな村の子供たちがレールの周りに集まってきた。礼儀正しい子供たちはレールに沿ってきれいに並び、順番に自分の名前を言って私と握手してくれた。エチオピアの子供たちは、列車の中の幼児から村で出会った子供まで、世界で見てきた子供たちとは決定的に何かが違って、あまりにも情緒が安定していた。熱気に蒸せる鉄の車内で十数時間揺られても、泣き出す子供はいなかった。喧嘩をしたり、悪さをしたり、騒ぎだす子もいなかった。好奇心や感情は内面のみに存在し、自制の利いた態度の枠をはみ出したりしないのだ。子供たちは平均的に声を上げて笑わなかった、ただそよ風のようなやさしい笑みと澄み切った瞳で私を見ていた。太陽は除々に高度を下げて、地平線に着地すると、そのままみるみるしずんでいった。村には電気や水道はなく日没と共に闇がきた。ランプやロウソクゃ焚火といった灯りのもととなるものがそこには一つもなかったからだ。列車の床や線路の脇に乗客たちは横たわり、長くて暗い夜に備えた。私はビニール敷物とシュラフを引っ張り出してきて、草の大地にそれを並べた。船上、港、ジブチのプラットホームーー夜のアルハマを
出港してからの野宿はその日で四日目だったが、その日の夜空は雲に覆われ、月明かり
さえも届かなかった。私の周りの闇の中には、少年たちの白い歯と輝く両目が見えていて、彼らがそこにいることをおぼろげながら確認できた。その反対に、少年たちには私の姿がはっきりと見えているらしかった。彼らの名前を一つずつ私は順に呼んでみた。
少年たちは「イエス」と返し、私の指をそっと握った。暗闇の中のすべての物が少年たちには見えているのだ。私のカバンが倒れると、誰かがすぐ元に戻した。メガネの置き場を忘れると、誰かが私に手渡した。少年たちは、私の頬ゃ髪の毛にそっと触れ、「ビューティフル」と呟いた。私は右手をゆっくり伸ばし、少年の顔に手を触れた。柔らかく滑らかな肌だった。私は彼にこう言った。
『君はもっと美しいね。』と。
 何もないということがある種の芸術性を持ち、ゆとりに満ちた子供の動作が心の琴線に静かに触れた。」

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清岳こう「風吹けば風」面白おかしく面白い

西瓜の種をかむと  清岳こう
爪先の細胞がひとつめざめる
南瓜の種をかむと かかとの細胞がひとつはじける
蓮の実をかむと 乳首の細胞がひとつふくらむ
こうして 私はアジア大陸に一歩を踏み出す
              ※
そっとしておいて   清岳こう
草原のただ中
少年が両手を広げうつ伏せになり寝ころがっている
地球のきしむ声を聴いているのだ
              
              ※
大皿で   清岳こう
運ばれてきたのはあばら骨だった
羊の心臓をけなげに守っていた
羊の小さな肝っ玉を心から愛していた
左右対称の空洞だった
湯気のあがる肝臓に 胡椒・腐乳豆腐(とうふペースト)・黒酢をまぜソースを作り
あばら骨の肉をむしりあばら骨をほおばりすわぶり指を脂でにぶくひからせ
その夜以来 若い羊がささやくのである
私の耳をくすぐった 薊の歌はどこに行ったの
私の巻き毛に止まった 蟋蟀のゆくえを探して
私の瞳に住んでいた ヒマラヤを舞う大鷹のはばたきを伝えて と 

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