「あさのひかりをあなたに」入江由希子 誠実な声

あさのひかりをあなたに   入江由希子
あなたは もう夜明けを見ただろうか
だれにももとめられないままあけていく夜の涙が こぼれ
うすいそらが あおく あおくひろがっていく
かなしみのうえにも かなしみが
かさねられてしまうときにも
どうしようもなくたちふさがるさみしさや
うめようのないむなしさ いたみ
ひかりに背をむけ 耳をふさぎ
うずくまるときにも
わすれないで
しんじることのできないときでも
わすれないで
やさしさのうえにも やさしさを
あいするよりも もっとあいされて
あなたに ふれていく
あなたが ふれていく
そのひかりのはしで
うまれつづける夜明けを わすれないで
                    ※
 いい詩だな、 この詩を初めて読んだとき、私は思いました。それは「傑作」とか、「名作」というのとは、ちょっと違った感じで、もっと親しみのある身近な感じです。
 しかし、それでいながら、私とは違う、そういう感じです。妙なたとえをしますと、ひと組の幼い子供と親
がいて、思わず私が「いいお子さんですね」といいたくなるような、そんな感じです。
 これはその理由をいってもなかなかわからないかも知れないし、私自身うまく説明できないのですが、
いい詩だなという感じは、全く間違いないと思います。
 ただ、これだけは言っておきたいと思うのですが、ひとや物事を思ったり、感じたり悲しんだりする、
本当にするということは、それは言葉をとおしてであるということです。
 このひとはこの詩を書いたとき、自分の心に素直に、それと同じように言葉に素直にあいたいしたのではないかと思います。
 自分と言葉とどちらが先にあるのか、本当はわからない、そんな感じがする、それはいい詩であるということではないかと思います。
 幼い子供はどこまでが自分で、どこまでがお母さんかわからない、 そんな子供がいいお子さんですねといいたくなるのです。
 

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「漕ぐひと」荒川みやこ 毎日の生活に穴があいた

漕ぐひと        荒川みやこ
明け方 車をだしてもらう
助手席にすわっていると前のほうに
ボートを漕ぐひとが見える
もやが波に見えて
波の中に大きな岩がでていて
そこから 漕ぐひとが一人沖に向かう
水平線がうっすら歪曲してきた
となりで 連れがハンドルを握りながら
スピードをすこしずつ上げる
魚のように息を吸って前を見ている
漕ぐ人は オールをぴっちりそろえ
影になり
波をとらえ
救命袋がついたチョッキを着ている
ぷくぷく膨らんでいるのがよくわかる
こっちは
シートベルトのせいで胸がペチャンコだ
バンパーに 魚が平たく重なって
張りついてきた
海までは遠いが
高速を降りるまで漕ぐひとに見とれている
 
 
 詩は日常世界からの脱出とか、飛躍とかいわれますが、この作品はかなりその典型のような気がします。
 とにかく、とにかく私は<バンパーに魚が平たく重なって 張りついてきた>という言葉を読んだとき、ほんとうにびっくりしてしまいました。
 そして、私は日常世界から見事に追放されました。
 こんなことって、あるのかと思いましたが、しかし、この言葉を読んでしまったからには、そして、妙な開放感を味わってしまったからには、なんと言っても受け入れざるを得ないという感じです。
 この詩はごくごく普通の日常的な風景が書かれています。しかし、よく注意してみると「漕ぐひと」が妙にくわしく描かれています。漕ぐひとがたいして面白くもないのに、妙に。
 それと、隣りの運転しているひとが<魚のように息している>というのも気になります。
 もしかしたら、こうした日常世界というのはすべてまやかしかも知れない。
 そして、<バンパーに張りついた魚>だけが本当のことなのかも知れないと思えてきます。これはいわば寓話の世界なのかも知れません。

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「氷が説けるとき」ロッテ・クラマー 木村淳子訳 解ける言葉

氷が説けるとき  ロッテ・クラマー 木村淳子訳
幾日も
雪と氷が厚くおもく
草の上をおおつている
銀色のおおいは川や湖のうえにも
油のように頑固に
居座っている
草の葉も小枝もそれぞれに
金属のような氷のよろいを着ている
光は歳月を真ふたつに切る
小さな私は父のかたわら
その手のとどく
すぐそばにいる
私たちの足は注意深く氷の上を歩む
ラインの川は いま
終わりのない 白いあたらしい道となり
頼りがいのある河は消えて死んでしまった
それでも 生きている
その広いかたい胸の上に
遊園地の雑踏ができるとき
紙面のかわりに
かたく凍った河のうえで 踊りながら
人びとがその河の流れ行く先も
起源も否定するとき
けれど 詩だけは 流れつづけようとするのだ
凍てついた言葉が解けるとき
 
 ひとつの詩を読んでいて、その意味内容がはっきりとはわからない場合があります。
 ああなのかな、こうなのかなと思いながら、何度か読んでみますが、それでもはっきりしません。それにもかかわらず、私のなかにあたらしい出会いというか、経験のようなものがかんじられて、そうしている
うちに、私はその詩を受け入れようという気持ちになります。
 私にとって詩との出会いは、ひとりの人との出会いと同じようなもので、その人の考えや行動について、よくわからなくても、出会ったとたんに、魅了されてしまうこともよくあるからです。
 その人の目の輝きや、落ち着いた声などが理由で。
 ところで、この詩が私をひきつけたのは最後の二行です。
 <けれど 詩だけは 流れつづけようとするのだ                                 凍てついた言葉が解けるとき>
 この言葉は、私に何一つ曖昧なところなく、伝わってきました。
 そして、これをもとにこの詩を読むと、すこしぐらい内容がわからなくても大傑作という感じがします。
 良い詩はこうした不思議な力を持っているのではないかと思います。
 

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「飛行鍋」 小池昌代 詩と鍋が空を飛んだ

飛行鍋    小池昌代
風の吹く なだらかな丘に 立ち
紙飛行機を飛ばします
詩を書いた紙はこうしてすべて。
読まれて困るということはありませんが
読むひとは そもそもおりません
子供のために折ってやって
今は自分が夢中になりました
風は必要です 強風より微風が
天気は 晴れより曇り空が好みです
尖った先 突入する
さいきん鍋を焦がしました
(もういくつもこがしているのですが)
鍋のなかに だしの素とみずをいれ
ガスを細火にしていたんです
わたし という人間は
すべて廊下の角をまがると
曲がる前のことを忘れるサル
広い家ではありません
けれどあのとき 角をまがって
忘れました ちいさい火のことを
かつをぶしのパックは焦げて鍋底にはりつき
煙があがり 発火寸前
ミイラを焼くと きっとアンナ匂いがするでしょう
白血球が二万を超え 体のなかで炎症がおきている
せきがとまらない せきがとまらない せきをするたび
失禁する なにかが飛び出る
自分がちらかる ちらばっていく
生理のくる間も飛ぶようになりました
いきなりきたり なくなったり
咳がとまらない頭が痛い時々泣きます時々怒ります
フィスラーの鍋はとてもよくできた鍋です
どんなに焦がしても 鍋自体が変形することはない
重い、強い、えらい、存在だ、この鍋は、
焦げた部分をたんねんにはがす
はがせば下から 銀色に輝く地が現れる
現れたとき 号泣したくなる
あれはわたし のような気がするものだから
毎日すこしずつ
はがす はがす はがす はがす
それをつみかさねて ついに おおきくなにかがかわる
焦げた鍋から輝く鍋が。
まる焦げになったわたしからわたしが。
はがす はがす はがす はがす
ごりごりと 夢中で 焦げををはがす
成田からフランスへ向かう旅客機で
アフリカ人の女性と隣りあわせたことがあります
白いシャツブラウスの 襟は帆のように立って
首もとには ダイヤモンドが光っていました
ダイヤとは 黒い肌にこそ つけるべきものであることを
そのとき心底理解しました
彼女は孤独な狂人で わたしのものを何でもほしがった
それ お借りできますか?
これ? もちろん どうぞ
そのときわたしが読んでいたのは
日本語訳のフランス現代詩読本(つまらなかった、です)
彼女はパラパラッと頁を繰り
すぐに返してくれました 懐かしい人
たった一度しか会わなくても 死ぬまで忘れないでしょう
そう、 飛行機ってね 何種類もの折り方があり
しかも案外 複雑な折り方をするんですよ
胴体部分は 重ね折りのため 分厚くなって
突端が コンコルドのように 下を向いたものも
ああコンコルド
かつて大きな墜落事故を起こし、 今は運転を停止しています
あの折れ曲がった機種の 微妙な角度は
まるで始終 自分の内側を見つめているようで
どこかいたたまれなくなったものです
空がたわみ わなわなとふるえ
ある日 産み落とされた 尖った白いもの
産道を傷つけ 自ら傷つき
風のなかで 紙は命を授けられた
わたしは いつも その瞬間がみたい
何かが 乗りうつる その瞬間を
人間の無力な両腕が
空から気根のようにたれさがっています
折ると祈る よく似ています
つーっと 飛んで
いつも最後
最後のところで
あっ、伸びた
ほんのすこしだけ 思ったより遠くへ着地するでしょう
飛行距離の伸び それが わたしへの
折り返される よろこびである
飛ぶ夢を いまもわたしはよく見ます
飛ぶにはちょっとしたコツがあり
はずみをつけて
空気の抵抗を押しのけながら
上昇する
ああ ぐわんぐわんぐわんぐわんぐわん
あまりに確かな快楽なので
目覚めた後も
わたしは飛ぶ「技術」を 持っていると感じる
眠る空のなかを
覚醒したわたしが飛んでいました
最高技術を駆使しながら
ええ あれは消して夢ではない
風葬のあと
海で骨を洗う沖縄の女たちの写真をみたことがあるのです
洗骨の儀式
腰をまげて
骨と骨のあいだについた腐肉を
たんねんに 波に洗わせていました
ゆるい丘から ひくくなだらかに
航路を描き 地に帰る白
優雅な着地
(泣き声がする)
風が吹いています こんな日には
重いフィスラーの鍋も空も飛びます
群れ飛ぶ紙飛行機にまざりながら
戦争は終わりました(ほんとですか?)
 
 
 私がこの詩を面白いと思ったり、好きになつたりするには幾つかの共通した感覚があります。そのなかでも、最近特に強く感じるのは、今この時代に、この社会に生きているという共生感覚です。
 そして、この詩は、そういったことがとてもわたしには素直に感じられる作品です。
 
 私はこの作品に書かれている内容も、そして、その書き方にも、現代をすっぽり感じます。まるで、テレビのようです(私はテレビも結構好きで、ニュースやドキュメンタリー、推理ドラマ等をしょっちゅう見ています)。
 テレビは、現代の社会そのもの、あるいは、現代の社会はテレビそのものです。これはどちらから言っても同じひとつのことなのでしょうが、でもその正体はよくわかりません。
 私はこの詩を読んでいると、ある夢のような感じを持つのですが、それにもかかわらず、とても日常的というか、現実的な感じもします。
 また(風の吹くなだらかな丘に立ったり、眠る空に乳首を立てたり、台所で鍋を焦がしたり、それを磨いてもうひとりの自分を見つけたり、旅客機でアフリカの女性と隣りあわせになったり、夢のなかでぐわんぐわんと飛んだり等々……)
 これは本当のことなのか、それとも夢(想像)なのか、わからないのですが、どちらなのかな、どちらなのかなと思いながら読んでいくのが、私にはリアリティがあって気持ちがよい感じさえします。
 これは散文では書けない、それぞれの言葉が自立している(勝手にふるまう)詩句です。
 もしかしたら、この詩はテレビ的な現代、現代的なテレビから密かに脱出しようとした居るのかも知れない。
 
 いずれにしても、「詩と鍋が空を飛んだ」この詩を私は決して忘れないでしょう。
 

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霧  村岡久美子

霧    村岡久美子
 今日突然、濃い霧と海の匂いが街をおおった。午後三時。もうほとんど夜のようだ。街じゅうの街灯がいっせいに点された。人びとは、全然進まなくなった車の中でクラクションを鳴らしはじめた。六階のフランスの新聞の特派員事務所の若い女性が窓のところで驚きの声をあげる。
「下の電話がなくなっているわ!」
 
 向かいの歩道の公衆電話は歩道もろとも消え去ってしまっている。いつもチャイ・ランがその公衆電話から電話をかけてきては、「君がここから見えるよ」と言う。彼女は窓から手をふる。そこが彼の司令部であり、戦略上の拠点なのだ。けれどもう何も残っていない。有楽町駅も、日劇も、銀座界隈も全部消えてしまった。
「チャイ・ラン、どこにいるの? わたしたち道に迷ってしまいそう。お互いを見失ってしまいそう」
 
 思いがけなく視界ゼロの幽霊船のキャプテンとなった記者マルセル・ジュグラリスは、途方に暮れたように頭を振る。窓の中には霧があるだけだ。ほのかな白い光がただよう幻想的な夜。車のクラクションはもう止んでいた。すべてが霧に呑みこまれていた。
「こんな霧は見たことがない。こんなことはいままで一度もなかった…」
 と、マルセル・ジュグラリスはくり返す。
 幽霊船をこの世につなぐテレックスも止まってしまっている。
「キャプテン、どうしようもありません」
「仕事はやめだ、コーヒーにしよう」
「いい考え!」
 洗面所に水をくみにいく途中、非常口のガラスごしに奇妙に傾いていく「歌手」の無言の影が見えた。
 
 時刻は二時五十分。音楽はベートーヴェンの弦楽四重奏曲。すべてが鉄錆び色をしている。シーツも、ノートも、テーブルも、窓も、部屋の空気までもが、今日街をおおった錆びた鉄の色に染まっている。彼女は自分ではそう思っている。
 けれどもこの部屋は、現実の今日の街と関わりがあったことはないのだ。もしどこかの街と関わりがあるとすれば、それは、たとえば一九四三年のある街とだ。窓を開ければ、一九四三年のその街、窓を閉めても同じことだ。この部屋が鉄錆び色におおわれているのは、彼女の頭の中の幻想の埃のせいなのだ。
 
 部屋の片隅にある暗緑色の器から白い煙が立ちのぼる。それが白かどうか確かではない。眼に見えないのだから。彼女がそんなふうに感じるのは、ゆるやかにただよっている香の匂いのせいなのだ。そのために彼女はいまにも窒息しそうになっている。けれども本当は、ずっと前から彼女の呼吸はひどく緩慢になっていて、もうほとんど窒息してしまっているのだ。
 
 時刻はつねに二時五十分。この物置の中は暗い。ほとんど荷物はない、それでもここは物置なのだ。その部屋で彼女は生きることも、料理をすることも、またものを片づけたり、散らかしたりすることも止めてしまった。窓を開けて空気を入れ替えることも、煙草の灰を捨てることもなくなった。
「風はいや…」
 ほんの少し空気が動くこともおそれて、彼女は爪先立ちでそおっと静かに歩く。
「風は良くないわ。風は埃や枕のカポックの綿毛を舞いあがらせる。それは何時間も空気中をただよってレコードにくっつき、最後は私を窒息させるんだから」
 彼女は舞台女優のような濃い化粧をし、目を黒く隈どる。それから目もとに大きなほくろをひとつ。気にいった位置が見つかるまで三度もやりなおした。
 鉄錆び色のシーツでおおったベッドの上に彼女は膝をそろえて坐り、バターの代用のラードで味つけしたまずいオートミールをつつましい仕草で口に運ぶ。それは彼女が、黒人の少年を気にいっているからだ。その眼は、知性のある人間がもつ優しさと穏やかさに充ちている。少年の濃密な黒い肌。ためらう彼女の白い手。
 
 ちょうどそのとき、誰かがドアを叩いた。
「いろいろ持ってきましたよ、奥さん。お安くしときますから。洗濯機の中に入っているんです」
「洗濯機に? 洗濯物なら洗えばいいじゃないの…」
「いえいえ、奥さん、そんなものじゃないんです。家族にみつからないように入れただけなんです。うちの者はうるさくて、みつかったりしたら大さわぎですよ。とてもかないません。どうか何かひとつでもいいから買ってください」
 彼はますます近づいてきて、その声はますます低くなる。彼は何かを売ろうとしているのだが、それが何なのか彼女にはわからない、彼は彼で、彼女の大きなほくろが本物のほくろなのか付けぼくろなのかわからないでいる。
「そんなわけのわからないお話はたくさん。それにどっちみちものはいらないわ。ものの奴隷になるのはいや」
 男は口をぽかんと開けて、一歩後ずさりし、突然姿を消した。
「ブラック・ボーイ、ブラック・ボーイ…彼はもういない…わかっているわ…私はもう彼の物語の中にはいない、彼の現在の中にはいない…」
 突然からっぽになった部屋の中で彼女は呟く。
「私はもうどこにもいない。全部消えてしまった…」

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singer

singer
Through the half-opaque window of the emergency exit door, you can see the silhouette of the
nodding “opera singer.” You can sense that her mouth is wide open and her lungs full of air.
It’s time for her daily singing exercises. Every day, at the same time in the afternoon, you can find
her here,on the landing of the of the metal staircase at the back of this office building.
She sings to the non stop purr of an air conditioner, the noise of giant fan that wakes up
intermitternly with a great roar, in back,in the tiny concrete courtyard, and mettalic murmurs and
the vibulations of the trains that arrive,leave, arrive…at that Yurakucho station.
This is the kind of orchestra that accampanies her.
She has a very full, warm,lovely rises and descends the slope of the staircase to the sky. When
you’re surprised the snatches of melody, you stop in front of the door with a strange pang in your
hearts as you do when you arrive late at a concert, just at the beginning of a concert, which is a
solemon and magical moment.
The atmosphere is intense to the extreme on the other side of the padded doors. The thinned melody comes through miraculously,which you listen to with desperate eagerness,
almost with a pain in your heart. There will never be music as beatifull as what you hear, like a
stowaway,in the sumptuously empty lobby, which is so immearsurably vast, so unbelievably silent.
This is a lost nightingale. She doesn’t belong here. She’ll be on stage soon.
One day, the people at the office discovered with amazement that the face of the “opera singer,”
so beautifully, perfectly oval, had lost its brightness, as if a layer of silt had been placed on it; the skin was both streched and wrinkled…delicately; she was creased, hunched up, drawn.
Time had passed. She will never leave the office. And that perspective threw her colleagues into a state of confusion. Since that time…uneasiness has taken over the office, and silence.
But there has been no change in the habits of the “opera singer.” She is disappears at the same
time in the afternoon to sings of all her happiness. all her joy. And at the end, she bows deeply, her right hand over her heart to acknowledge the unbridled cheers of her imarginary audience
and to thank the orchestra that was accompanying her, and feels so happy,so grateful. And she
reterns to the tiny union office of the film company, which is the darkest and most sinister office
in the whole building. It’s in permanent disorder and often overflowing with freshly painted banners that occupy the entire length of the hollway, sometimes all the way to the elevator.
She takes her place again in the corner, far from the window. With a badly extinguished flicker of joy on her face, reddened by practicing, and the lights in her eyes into burning with too much intensity , she plunges back into the paperwork of a model employee, who is discreet and hard-working; fading into the shadows, she becomes a shadow again.

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歌手      

歌手     村岡久美子          
 非常出口の半透明のガラス越しに「歌手」の影が揺れているのが見える。口は大きく開かれ、吸い込んだ空気で肺はいっぱいになっているのだろう。いつもの発声練習の時間なのだ。彼女は毎日午後、この時間になると、働いている事務所をそっと抜け出して、同じ階の裏手にある金属製の非常階段の踊り場で歌う。エアコンの唸りと何分かおきに始動する巨大な送風機がそのたびに引き起こす爆発音が、機械室のあるコンクリートの狭い中庭からふきあげてくる。目の下の有楽町駅からひんぱんに出入りをくり返す電車の振動とざわめきが伝わってくる。その真っただ中で彼女は歌う。これらの騒音は伴奏をつとめるオーケストラなのだ。
 
 彼女の声はとても美しい。声量のある暖かみのあるその声は、空の急な階段を嬉々として昇り降りする。通りがかりにふと聞こえてくるメロディ。いつものことなのに、ひどく心を揺さぶられて立ち止まり、耳を傾ける。奇妙な胸の痛み。まるでコンサートに遅れてついた時のように。ホールを埋めていた上気した観衆の姿はなく、ひっそりした広すぎる空間に呆然と立ちつくし、閉ざされた防音の二重扉の向こうの、緊迫したもっとも厳粛な瞬間を思い描く。そのとき、ふいに奇跡のように流れてくるメロディ。絶望的な貪欲さでそれを聞く。この世でもっとも美しい幻想的な音楽。
 
 ここは彼女の居場所ではない。しかし、彼女が舞台に立つのはもう遠い先のことではない。まもなく彼女の晴れの舞台が見られるだろう。誰もがそう思っていた。ところが、いつの間にか彼女のきれいな卵型の顔から輝きが消えてしまっていた。肌が張りを失い、奇妙にひきつっている。それに気がついた同僚たちは驚き戸惑った。時が経ってしまったのだ。時の細かな粒子が美しい顔の上にひそかにふりそそいだのだ。彼女が舞台に立つことはないだろう、この職場を離れることはないだろう、という二つの見通しが同僚たちを失望させ困惑させた。それ以来、気づまりと沈黙とが彼女をとり巻いている。
 
 けれども「歌手」の日課には何の変化も現れなかった。午後いつもの時間になると、そっと席を離れ非常階段の踊り場に立ち、虚空を前にして歌う。幸福のかぎり、喜びのかぎりをこめて歌い、最後に胸に右手をあてて、深々とお辞儀をして観衆の熱狂的な拍手に答え、それからオーケストラに感謝の気持ちを示す。それが終わると、映画会社の労働組合の狭くて薄暗い事務所にもどる。いつもごった返していて、ときには墨で黒々とスローガンが書かれたばかりの横断幕がはみ出してきて、廊下の向こうまで突き抜けていき、エレベーターの前まで届くことがある。彼女は窓から遠い、薄暗い片隅にある自分の席にもどり、歌の練習で紅潮し、喜びで輝いている顔をふせて、つつましく勤勉な事務員にもどる。彼女はこうして影に融けこみ、影そのものになる。
                                                       
 
 
 
                               
 
    
 

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HOUR ARITHMETIC Kumiko Muraoka

HOUR ARITHMETIC Kumiko Muraoka
Today is already the eighth day of spring, and this is the twenty-seventh spring. I am beginning to
understand that times and that things all the methods for measuring time: cutting notches on the
flow of time, making bouqets of the seconds, putting them in rows on paper. Sometimes time seems to be a ribbon, sometimes a point, sometimes minusucule thorns.
The length of time is the thing that is the most difficult to understand. One day it’s too short, or too long, endless. That’s why there are men who devote their life to keeping watch over the lentgh of time, we call them “scientists. ” But scientists have never understood the length of
the time in which they are living, and they disappear suddenly from the earth.

On the Yurakucho viaduct pass circle-line trains, under the viaduct, a silent cobbler-shoe-shiner
is seated on a small wodden stool. He is there all winter and summer, squeezed into clothes that he puts on over each other. On him he is carrying all the clothing that he possesses, but he’s always numb with cold. It’s because of this wind passing under the viaduct. which is different than
that blowing from the other side, several feet from there.
The hands of the shoe-shiner are dried out, blackened, deformed,the pupils of his eyes are constantly dilated. In the obuscuruty, he can make out the grey luster of the nails and pound them
into the sole with dexterity; he has’t ever lost a single one, or struct it sideways, or missed. The
eyes of the cobbler are extreamly sensitive to miniscule objects: needles, threads, nails, leather
remants……But his eyes can’t forcus on larger objects.
There are now two mutes and a hunchback leaning his hump against the cement wall. When there
are’nt any customers, the cobblers’ conference is held:they chat, gossip and laugh with their heads thrown back, their gestures more and more lively more and more frentic, strange. You can’t hear their conversation, because of the trains passing ceaselsely over their heads.
They have come to the conclusion that the sun is a kind of crawling animal. It’s is never far from where they are, but it never comes to see them. They find that incoprehensible. One of them,
hoever, has found an explanation: “Meybe it has no shoes. ” They burst out laughing as a sign of triumph. The triumph of intelligence.
But the eyes of the cobbler don’t see the length of time.

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クミコの小説「時の算術」

「時の算術」        村岡久美子
 今日は、すでに春の八日目、二十七回目の春。時は過ぎてゆくもので、時が過ぎてゆくにつれて、いろいろなことが起こるということがわかってくる。時を計るあらゆる手段を試してみる。流れる時に刻みをつけたり、秒を束ねたり、紙の上に並べてみたりする。すると、時がリボンみたいに見えてくる。あるときはただの点みたいに。またあるときは小さな棘みたいに。
 時の長さは、わかりにくいもの。一日はあまりに短く、あまりに長く、終わることがない。だから時の長さを観察することに一生を捧げる人びとがいる。彼らは「学者」と呼ばれている。しかし学者は、自分もやはりその中で生きている時の長さをけっして理解することはない。そして彼らは、突然この地上から消え去ってしまう。
   *
 有楽町の高架を環状線の電車が走る。高架の下では口のきけない靴磨きが木の椅子に腰かけている。重ね着した服に首を埋めて、冬も夏もずっとそこにいる。ありったけの服を着込んで、それでも彼はいつも寒がっているように見える。高架の下をとおり抜けていく風のせいだ。何メートルか先の向うのほうで吹いている風とはちがう。
 靴磨きの手は干からびて黒ずみ、いびつになっている。瞳孔は開いたままになっている。薄暗がりの中でかすかに光る灰色の小さな釘を見分け、靴底に打ち込んでいく。見落としたり、斜めに打ったり、打ち損じたりすることはけっしてない。靴屋の眼は、針や糸や釘など、ごく小さなものには極度に敏感なのだ。それらより大きなものには焦点を合わせることができないのだ。
 いま靴屋は、二人の口のきけない男と、セメントの壁に背中の瘤をもたれさせている男が一人。客がとぎれると、彼らの会議がはじまる。議論し、冗談を言い合い、頭をのけぞらせて笑う。やりとりが熱をおびてくると、彼らの仕草はますます大仰で奇妙なものになっていく。その会話を聞きとることはできない。絶え間なく頭上を走り抜けていく電車のせいだ。
 彼らは、太陽は爬虫類の一種であるとの結論に達した。太陽は、彼らのいるところからけっして遠いところにいるわけではない。けれども彼らにはけっして会いに来ない。そこがどうにもわからなかったが、ひとりがその理由に思いあたった。
「あいつはたぶん、靴を持ってないんだ」
 この明快な分析に彼らはわっと笑う。知性の勝利。
 
                        
 

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一青窈(ひととよ)さんのハナミズキ

jp.youtube.com/watch?v=jUGN2vMj3bY&hl=ja
ひととよさんはハーフなのかな。 なにか迫力がある。
これくらい迫力があれば、原爆の後遺症の心の傷で、
失った60年を取り戻せるエネルギーをもてるかも知りない。
みんなのうたもすばらしい、はずかしい、うれしい。
<a href="jp.youtube.com/v/ZB_RuIw_TPs&hl=ja

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