鷲谷みどり「フラミンゴ」言葉の旅

フラミンゴ    鷲谷みどり
フラミンゴたちは眠りのあいだ
木のように
夜のしずくを吸い上げている
この公園の
いきものたちは毎夜
四角い柵に自分の眠りを立てかけて
四角い夢を見るけれど
自分のかたちの上手な手放し方を
よく知らない私は
まだ うまく眠れない
彼らの眠りを一体何が支えているのか
植物のような関節で
ここにこうして立ち続けるために
一体どれほどの夜のしがいが そこに
井戸のように落とし込まれ続けなければならなかったのか
その疑問に答えようとして
なぜか私が足をもつれさせてしまう
この箱のなかの
うす赤いいのちの群れの中に ひとつだけ
張りぼていきものが立っているような
そんな不思議な間違いが この四角い柵に
眠っているような今夜
私は なんだか何度も
鳥たちの顔を覗き込んでしまう
鳥たちの夜の色をした目を覗き込んでから
私の夢のなかに
その紙のいのちの質感が消えない
かさこそとした音の
むせかえる夜の匂いのなかで
紙のいきものは 一体
どんな重心で
みずからのいのちをこらえているのか
息をつくたび ほどけていこうとする
その桃色のいのちの首とで今
とうやって夜の色をせき止めているのか
奥行きのない 淺い水の夢のなかで
あらゆるものから目から覚ましていても
あるはずのない私の体の底の井戸の
くらい水のたてる音からは
ついに起き上がることのできないまま
水辺の鳥たちは 夜明けを前に
自分の体の
上手な折り目を探している
                     ※
 とても不思議な感じのする詩です。
 私は一度もこれほど鳥を見つめたこともないし、鳥の間近にいて、遂に鳥と一体化してしまうような
ことは、全く未経験なので、何が書いてあるのかよくわからないのですが、それにもかかわらず、先へ先へと読んでしまいます。
 なぜそうなのかといえば、もしかしたら、この詩の言葉が持っている独特の力のせいかも知れません。
 言葉と言葉として生まれる私たちの内側にも外側にも同時にある言葉、その言葉が生まれる前になにかしらあるもの、殆ど物質のようなもの(人によってはこれを「言霊」などといったりしますが私はこの言い方はあまり好きではありません)この詩人がめざしているのは、この言葉の基ではないでしょうか。
 この言葉の基があるのは私たちを生み育てた場所かも知れません。

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