夜明け前AFTER DARK 植村初子
稲穂とねこじゃらしの野を
兄弟は雲にのって
かけつけた ロビーのソファで
仮寝をして時をまちうけた
父は死んだ。
(このことばを石にしたい)
病院の
浴衣を着せられ
三十分後には もう
県道を疾走。
深夜二時の
まだ重くない あかりを消した家々の
ぎざぎざするシルエツトの暗闇にの上に
一本の纜にぶらさがるゴンドラの
ディアーヌ。
車の窓からみあげる、
兄弟三人の月
家族の物語
王は父。
帰還後の銀色の美しい着物。
こんなことばでいいのかしら
娘が父親の死をいうのに
まっすぐ父に向きもしないで
なにかはしゃぐようで
しらじらと鍵盤が野のように広い
どこに指を落そうかと始まる音を想像し
手を空中にとどめる
でも…
道にアベリアが咲き
父は死んだ
神戸屋で秋のぶどうジュースをのむ
父は死んだ
白い槿が咲く
父は死んだ
生垣のむこうを調布駅南口行の
小田急バスが明かりをつけて通った
※
「決定的瞬間」という言葉はよく写真について言われますが、私はこの詩を読んで「決定的時」という
言葉を思いつきました。「決定的時」というのは、その前でその後でもないるそういった時のことです。
それがなぜ「瞬間」ではなく「時」であるのかというと「瞬間」は目で捉えるもので、「時」は心でとらえるものであり、従って言葉でしか現すことができないのです。
なぜこんなことをくどくどとかいたかというと実はこの詩を読んでそういう感じになったのです。つまり、この詩は決定的時を書いたものだとおもったからです。
「父は死んだ。
(このことばを石にしたい)」この二行
これがこの詩の決定的な時です。
恐らく、この詩は「父は死んだ」ということのためにだけ書かれたものに違いありません。この詩を書いたひとは、この言葉を書くことによってはじめて「父が死んだ」ことを納得できたのだと思います。
そうしないと詩人は「父が死んだ」という事実の前でふあふあして自分自身の存在か゜とても不確かなものに感じられたのだと思います。
こういう時に誰でもが生きていく間にどうしても「決定的時」に出会い、それを引き受けなければならないのかも知れません。
そういった状況で、詩というのは大きな力を発揮するのだと思います。
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