もしも、私たちが渡り鳥なら――すべての母たちへ 中村純
(あなたを産んだ夜、何度も産みたいと思った。完璧な個体であるあな
たのからだ、あなたの人生。私のものではない。あなたの人生ははじ
まったばかり。放射能が振ろうとも。全ての母よ、渡り鳥のように
子どもを連れて安全なところに飛び立て、裸で産んだあの日のように、
素足で生きることを恐れるな。)
裸の凜とした肢体で 私たちはただの母だ
裸の凜とした肢体で 私たちは君たちを産んだ
君たちが産まれて
分娩室で裸の私たちの胸にのせられたとき
君たちは懸命に生きようと乳を吸おうとした
何もないことがしあわせだつた
私たちは裸でも生きていかれる
素足のまま 歩いてゆける
もしも私たちが渡り鳥なら
何も持たず
安全な食べもののあるところを目指して
きみたちを育てられるところを目指して
今すぐにでも飛び立てる
ただ母として ただの裸のいのちとして
今 私はただの母に戻りたい
君を産んだあの日
素足で世界に降りたって
世界と和解した夜
何度でも君を産みたいと願ったあの夜
はだかの私 はだかの君
お金も家もしがらみも仕事も何もかも棄てて
もう一度 君と生きることだけ考えて
君を連れて ここから飛び立ちたい
そしてすべてがはじまる
※
この詩は何にも難しいところはない。小学生からお年寄りまで、子どもも大人も、おかあさんもおとうさんも誰でもが、この詩の意味と作者の願いがわかるに違いない。
こういった詩(誰でもわかる詩)を読む時に大事なことは、書かれた言葉をそのまま受け取り信ずる
ことではないかと思います。
それは簡単なようでもあり難しいことでもあります。たとえば二連目の<何にもないことがしあわせだった 私たちは裸でも生きていかれる 素足のまま 歩いてゆける> この言葉をずうっと受け入れることは決して簡単名ことではない。
それにもかかわらず、私たちは心のどこかで、「ああ そうだ」と了解しているのだ。
実は、この詩全体が、これと同じようにかかれている。
そして、このことが、この詩の魅力の秘密であるとおもいます。
ただ私なりに、この詩を読んで感じたことを言うと、何だかとても怖い感じがします。
母であることは、とても怖いことでもあるのです、特に現代のような時代では。
それにもかかわらず、わたしたちは一人ひとり渡り鳥のような母でなくてはならないと、この詩を読んで感じます。
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