間島康子「ある十月の日の雨の降る」詩の場所

ある十月の日の雨の降る     間島康子
うす汚れた地下鉄のホームに
うら哀しいギターのバッハが流れる
黒いロングコートの男が長い髪をして
多分日銭稼ぎのために弾いているバッハ
昼下がりの雨の降りはじめた十月の日は
すれ違う人から何も奪わず
奪われるものもない
静かな気持ちが似合っていて
ベンチに腰をおろして電車を待った
記憶へ傾いていく苛立ちもなく
先へ先へとのけぞっていく重い力も湧かず
マンハッタンの真ん中の人のまばらな地下で
ヨハン・セバスチャン・バッハを聴いていた
疲労ではない 幸福というのでもない
ひとり ひとり くねくねと生きてきた
細い道のりのやわらかい穴のような時間
にそっと身を置いていた
アーチ形の闇の向こうから風が吹いてくる
竈に吹き送る息のような体温の束ねられた
風の波を先立てて電車が滑りこむ
一体どこへ行こうというのだろうか
あの人 その人 この人 このわたくし
それぞれにつないだ場所や行方や
あるもの無いものへの見えない契りに
背中を押され吸いこまれていく
あ バッハが
無造作に閉じられた電車のドアにはさまって
つやめいた声を響かせ
そして途切れた
ゴトン
とためらいの音がひとつ
電車はゆっくりと動き出した
わたくしをまかせていく
闇に光るレールの上を レールの先へ
            ※
 現代のような状況で詩を書いたり読んだりすると、やはりどうしても日常的な世界や自分の内部へと気持ちがいってしまいそうです。
 この詩はそうしたなかで、私が出会った「共感」できる詩です。日常的といってもただ単に
目の前にあることを書くだけでは決して詩はひとつの詩にならないと思います。
 この詩は初め何気なく、いかにも日常のひとこまのように始まっていきます。けれども、この詩のなかで、じっと佇んでいるある存在、ひとりの人間が秘かに感じられます。それは特に
第二蓮目の<疲労ではない 幸福というのでもない ひと ひとり くねくねと生きてきた 細い道のりのやわらかい穴のような時間 にそっと身を置いていた>という表現に感じられます。
 そして、この詩は読んでから現代という状況を再び考えてみると、私にはそれが少し違ったように感じられます。ほんの少しかもしれないけれども、この変化はとても大切なことだと思います。最後の連はとても格好がいいというか、見事です。まるで、懐かしい映画のシーンのようです。

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