筏丸けいこ「私は 子供のようになるときの」面白いものは不思議である

私は 子供のようになるときの   筏丸けいこ
母が好きだ
なにかエキゾチツクな木が
枝をのばして
欲求をもつときの
はっきり あなたが 母だと 思えないとき
いったい あの発光する都市で
眠りかかった葉っぱは
その内部に 岩を支え
誕生と 死を 思い出させるのか
母よ
うつろな太陽に ほほえみかけてくれるな
急流
母という 表面に充満する 素直
    ※
 私が面白い詩の条件の一つは、何故この詩が面白いのかわからない、この詩のどこが
面白いのかわからない、それにもかかわらずこの詩は面白いというのがあります。
 
 さて、この作品はまさにその条件にぴったりの作品です。
 私は初めてこの詩に出会ったときから、とても面白い、新しい詩だと思いました。何度か読んだいまでも同じようにかんじます。
 けれど、何故面白いか、どうしても私にはよくわからない。うまく説明できない。こうなると、これは本物だと思わずいいたくなつてしまうのです。
 ただ、この詩に私が感ずる特別のことがあります。それは読む度に、詩のほうで私に
何かしら合図を送ってくるような感じがすることです。
 それはあたかも小さな生きもの、けれども宇宙に繋がる生きもの(カフカが見たオドラテク)のようで、その触覚なのか尻尾なのか、わからないけれど、ぴくぴくと動かして、私に合図を送って
いるような感じがします。
 たとえば<枝をのばして 欲求をもつとき>とか<誕生と 死を>とか(どの連のどのことばでいいし、行間でもいいのですが)私がこの詩を読む度にぴくぴくと合図を送ってくるような気がするのです。
 どうやら、この詩のことばたちはいままでの詩のことばよりも、はるかに自由なのだと思います。詩からも、この詩をつくった詩人からも。
 これは、もしがしたらすべての詩人たちの夢かも知れません。こんなふうに、ことばと自由に付き合えたら、ほんとうに面白いと思います。
 

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