「泥酔と色」中島悦子 詩という事件

泥酔と色    中島悦子
「せっかくですから」と言って、入った寺で濃茶をいただく。あ、
これ、入場料に含まれているわけですね。
あああ、そうですか。そうですか。
(入場券は財布にしまう。)
寺ってのは、いろいろな罪をかぶってくれるんですって。
コインロッカーの中に、朝早くから詰められる荷物は、たとえ                         ば、黄緑色の芋虫。その輪廻のまわりは早い。生まれ続ける芋
虫に、たった一週間であふれそうなコインロッカー。
その輪廻をめぐりを反省する。蝶にに生まれても反省する。魚に
生まれても反省する。もちろん芋虫に生まれても反省する。餓
鬼になり反省し、地獄へ行っても反省する。人間になった時は、
小さな紙に必ず記録して反省する。反省。
何にもなりたくなかった。
ただ、何かの染料にはなりたかった気がする。
自分自身が、完全な色となる日。
ひきこもりの松田君が、問題をだしてくれる。
「次のうち、低級アルコールはどれでしょう。①イソプロピル
アルコール ②ステアリルコール ③ラウリルアルコール
④ミスチルアルコール」
その痛々しい問題にどうこたえたらいいのかわからないうちに、
窓の外でふみきりの警報機が急に鳴り出した。
よく夢で殺されそうになる。絶体絶命、藁葺きの屋根の上に追
い詰められると、大抵飛び降りて逃げようとする。途中で、空
中に飛べる。それは不思議な光景なのだが、あの時、もう死ん
でいたのだろうと思う。
濃茶を飲む。 濃緑になる。
正月には、満員列車に窓から乗り込んで故郷をめざす。おみや
げがある。その袋が大きく重い。自分の荷物はほとんどない。
故郷とはどこか。これは現実か。
こころの声は誰にも聞こえない。奇声だけはやたらに聞こえる。
わたしの声もどこか奇声となって、しかし、それが普通に聞こえて
いるかもしれない。
どこかで気持ちを落ち着けるとしても、
染料といえば、ムラサキがいい。
ムラサキ科の多年草の根からとれる紫。
紫足袋にでもなって、
下々の女の足にまとわりついていればいい。
下々の女の。
染料になって。
                        ※
 これって一体どういう事なんだ!  これは何なんだ! あっちへ行ったり、こっちに来たり、走ったり、
立ち止まったり、これって一体どういう事なのか?
 というのが、初めてこの詩を読んだときの感じです。このことをもう少しくわしくいう前に、一つだけはっきりさせて置きたいのは、とにかく、<事>であり、やや大げさにいうならば<事件>なのだということです。
 たとえば、一連目、これくらい元気な詩は今までに読んだこともあるし、私自身も書いたような気がします。けれども、三行目の<あああ、そうですか。そうですか。>などという乱暴とまでいえるような調子にのった言葉は私は書いたことがありません。元気がよすぎて、ドタバタしている感じがしますが、でも気分は決して悪くない……。
 まあ、これはいいとして、一連目から次の二連目は殆どつながりには感じられず、ガチンと頭がぶつかる感じがします。でも、決して気分が悪いわけではない。
 さて、続いて三連目はこの詩のなかで、私のいちばん気に入った所です。
私は蝶になったり、魚になったり、地獄に行ったり、人間になったり、どんどこ移っていきます。もちろん、
私は反省なんかしません。こんなに早く移っていつては反省どころではありません。反省しないのは、
私の責任ではないような気がします。
 それは私がいつも大声でいいたいことで、私は反省が大の苦手だからです。
というわけで、この詩は私に自由に読んで、自由に解釈していいんだよといっているような感じがします。というと、何かしら悟りきった宗教と勘違いする人もいるかもしれませんが、そうではありません。
 この詩に私が最も近いと思うのは、私が中学生の時、五、六人の友達と一緒にいろんなことを自由に
話した時のことです。後になって考えてみると、その時、自分でも何をしゃべっているか、よく分からないのに、私は夢中で話しをしていたような気がしました。そして、相手には私の話の細かいところはわからなくても、
全体はわかってもらえたような気がしました。さて、このおしゃべりのような詩のなかから「色になりたい」ということが、一つの思想ののように私のなかに残りました。それは最後の連で決定的となつたわけてすが、おそらく、そのわけはこの詩が中学生のように自由に話す力をもっているからだと思います。

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