歌手 村岡久美子
非常出口の半透明のガラス越しに「歌手」の影が揺れているのが見える。口は大きく開かれ、吸い込んだ空気で肺はいっぱいになっているのだろう。いつもの発声練習の時間なのだ。彼女は毎日午後、この時間になると、働いている事務所をそっと抜け出して、同じ階の裏手にある金属製の非常階段の踊り場で歌う。エアコンの唸りと何分かおきに始動する巨大な送風機がそのたびに引き起こす爆発音が、機械室のあるコンクリートの狭い中庭からふきあげてくる。目の下の有楽町駅からひんぱんに出入りをくり返す電車の振動とざわめきが伝わってくる。その真っただ中で彼女は歌う。これらの騒音は伴奏をつとめるオーケストラなのだ。
彼女の声はとても美しい。声量のある暖かみのあるその声は、空の急な階段を嬉々として昇り降りする。通りがかりにふと聞こえてくるメロディ。いつものことなのに、ひどく心を揺さぶられて立ち止まり、耳を傾ける。奇妙な胸の痛み。まるでコンサートに遅れてついた時のように。ホールを埋めていた上気した観衆の姿はなく、ひっそりした広すぎる空間に呆然と立ちつくし、閉ざされた防音の二重扉の向こうの、緊迫したもっとも厳粛な瞬間を思い描く。そのとき、ふいに奇跡のように流れてくるメロディ。絶望的な貪欲さでそれを聞く。この世でもっとも美しい幻想的な音楽。
ここは彼女の居場所ではない。しかし、彼女が舞台に立つのはもう遠い先のことではない。まもなく彼女の晴れの舞台が見られるだろう。誰もがそう思っていた。ところが、いつの間にか彼女のきれいな卵型の顔から輝きが消えてしまっていた。肌が張りを失い、奇妙にひきつっている。それに気がついた同僚たちは驚き戸惑った。時が経ってしまったのだ。時の細かな粒子が美しい顔の上にひそかにふりそそいだのだ。彼女が舞台に立つことはないだろう、この職場を離れることはないだろう、という二つの見通しが同僚たちを失望させ困惑させた。それ以来、気づまりと沈黙とが彼女をとり巻いている。
けれども「歌手」の日課には何の変化も現れなかった。午後いつもの時間になると、そっと席を離れ非常階段の踊り場に立ち、虚空を前にして歌う。幸福のかぎり、喜びのかぎりをこめて歌い、最後に胸に右手をあてて、深々とお辞儀をして観衆の熱狂的な拍手に答え、それからオーケストラに感謝の気持ちを示す。それが終わると、映画会社の労働組合の狭くて薄暗い事務所にもどる。いつもごった返していて、ときには墨で黒々とスローガンが書かれたばかりの横断幕がはみ出してきて、廊下の向こうまで突き抜けていき、エレベーターの前まで届くことがある。彼女は窓から遠い、薄暗い片隅にある自分の席にもどり、歌の練習で紅潮し、喜びで輝いている顔をふせて、つつましく勤勉な事務員にもどる。彼女はこうして影に融けこみ、影そのものになる。
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