このアパートに引っ越してきて35年近くなるのに今朝、今まで一度も見たことのないものを私は見た。私は朝四時過ぎに起きて、ノートに「やりたいこと」と「
やらなければならないこと」と書こうとした。しかし、私がやりたいことはガラス戸
を開け、風を入れることだった。窓の外はまだすこし薄暗かった。
なんとなく斜め向かいの白いピルを眺めると外階段の四階の手すりを男がするするっと登り、雨樋をするするっと登り、男は四階屋根のひさしにぶら下がり、片方づつ足をあげ、ひょいとビルの屋上に立った。
男の激しい息づかいが聞こえてくるようだった。彼は下着のようなシャツを着て指のない革手袋をしている。映画で見る闘士のようでもあり、スパイダーマン
のようでもある。
これから男はどうするのだろうと期待と好奇心にかられて見ていると、彼のほうでも私を見ているのでびっくりして、まるで見てはいけないものを見てしまったような気持ちになり、私はガラス戸を半分閉めて別室に移った。
こんどはすだれ越しに眺めると、男は四階の白いビルの屋上から隣接しているもっと大きな茶色いビルの非常階段の階段を使わず鉄柵をひらりひらりとよじ登り、もう一度ひらりとよじ登り、六階まで登ってしまった。
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