「緯度0度」中堂けいこ 詩の力

緯度0度   中堂けいこ
赤い道を歩いてみたいと女がいう
糸杉がまばらに生える
ベンガル色の小径なら知っている
この机からは遠くはなれて
円環の謎がくるくるまわる
春と秋の分かれ目では
深い井戸も水が涸れ
ガーデンバーデイが開かれるほど
そこでは決まってサインペンが配られる
なんて安っぽい酸化第二鉄と少量のメディウム
わたしたちは互いの裸体に赤い線を描きなぐる
血の匂いがすると女がいう
この藍靛(インジゴ)の球形
止めどない上昇気流に乗り
モンスーンのなかに
踏み出せば足の甲に光のスジとして
あらわれるものらしい
 
 私はこの作品を読んで、とてもびっくりし、感動しました。
 
 なぜなら、私は今までこのような詩を読んだことがないからです。それにもかかわらず、この作品は私の鼓動とどこか共鳴するところがあります。
 今まで読んだことがないというのは、まず、この詩に書かれている意味内容が
殆どよくわからないからです。
  
 でも私は繰り返し、この詩を読んでみたくなりました。そして何回も読みました。その度に私のなかで、どっきん、どっきんと共鳴するものがあり、私自身びっくりしました。
 なぜ、こうなったかというと、恐らく、それはこの詩の暗喩(メタフォー)の力だと
思います。
 たとえば、それは初め、
<赤い道を歩いてみたいと女がいう>
にすでに始まっています。このことばは誰が言ったのか、どういう意味で言ったのか、実は殆どわかりません。しかし、この詩を読んでいくと、このことばが大変
リアルに感じられるようになります。
 つまり、この一行は意味ではなく、暗喩(メタフォー)そのものなのだと思います。メタフォーというのは、どこかしら宙ぶらりんの感じがして、そこからどちらの方向に飛んでいってもいいような感じがします。但し、跳躍することがその本質です。
 
 ポール・ヴァレリーが「散文は歩行であり、詩は舞踏である。」といいましたが、
この暗喩の宙ぶらりんな感じ、跳躍の感じが舞踏にあたるのではないかと思います。
 この作品は決して意味もイメージも私にははっきりとわかりませんが、それでも私にこれほど驚きと感動を与えてくれた作品を読んだことがありません。
 また、この詩をダリやムンクの絵の世界のようにも感じました。
 ある人はこの詩を現代の人間社会のメタフォーのように感じるかも知れません。
 私はこの詩を女性の性の世界のメタフォーのように感じました。


 

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