「マリーナ」T.S.エリオット 人生の時の時

マリーナ  T.S.エリオット 水崎野理子訳
 ここはどこだ、なんという土地、世界のどこなのだ?
どんな海がとんな岸が灰色のどんな岩がどんな島が
どんな波が船の舳先に打ち寄せてきたか
松の香り 霧の中に聞こえて来るツグミの声
どんな風景が蘇って来るか
おお 娘よ
犬歯を研ぐ者は

ハチドリの栄光に煌めく者は

満足して豚小屋に居座る者は

獣の情欲にふける者は

彼らは消えて行く 風にかき消されて
この恵みによって
まっ風のよよぎ 霧の中のツグミとなる
この顔は何だ だんだんぼんやりしてだんだんはっきりしていく
手の脈はだんだん弱くなりだんだん強くなっていく
現実か夢か? 星よりも遠ざかりしかもだんだん近付いて来る
歯のそよぎと急ぐ足音 その中ささやく声と小さな笑い声が聞こえる
眠りの下 海は鎮まる
船は氷でひび割れペンキは熱の為剥げた
これは私の船 私は忘れていた
そして思い出す
船の装具は弱まり帆は腐ってしまつた
ある年の六月から次の年の九月の間に
私はこのことを忘れていた 人にも言わなかった
船板から水漏れがした 継ぎ目は修復が必要だ。
この姿 この顔 この命
私を越えた永遠の世界に生きている
私は私の命をこの命に委ねる
私の言葉をその未来の言葉に委ねる
私は目覚める 開かれた唇 希望 新しい船
どんな船どんな岸輝かしいどんな島が私の船に向かって来るか
霧の中私を呼ぶツグミの声
娘よ
 
 眠りから目覚めようとしているのか、あるいは、軽い痴呆症を患っている脳が再び活性化しようとしているのか? いずれにしても、意識が混濁しているときに言葉を発し、それを書きとめるとするなら、このような作品が生まれるのかも知れません。
 けれども、そうしたことは殆どあり得ません。恐らく、ごく稀にコカインなどの麻薬の助けを借りて、このような詩がつくられた例も幾つかあります。そういう場合、どこか不自然で、言葉そのものが貧しく歪んでいるのが通常です。
しかし、この詩はそういったことが全く感じられません。何かしら、この詩のなかで、わかり難い、ぼんやりしているところがあるとすれば、それは言葉がそうなのではなく、言葉の置かれている場所(夢と現実の間)がそうなのですから。
 つまりその場所とは(眠りと目覚めの間)であり、(痴呆と正常の間)であるからです。さらに、実は(生と死の間)であるからです。ということは、もしかしたら、(眠りと目覚め)、(痴呆と正常)は、そのまま(死と生)に結びついているひとつの同じ道程かも知れません。
 それが美しいとか、醜いとかいうのではなく、そこに生きる意味の本質があるとこの作品は語っているのではないでしょうか。

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