清水茂というひとのエッセイ

 最近といってもここ数ヶ月半年ばかり注目しているえっせいがある。
 かれはイブ・ボンヌフォワというフランスの詩人の詩を翻訳している早稲田大学の教授なのだか、その文章たるや、驚くべきものがある。
  「たぶん一人の詩人であるということは、そのようなものとして世界にむかってつねに自分の感性と思念とを開いておくことだ。どのような己れの行為にもその在り様は付き纏っており、語られ、書かれるどの
一語にも、その痕跡はとどめられる。それは職業でも身分でもない。だから、大学教授のように、詩人がそうであることを免れ得る時間など存在しない。芭蕉、マラルメ、その他。
 他方、美しい手紙を書くためだけに友情の必要な人がいた。ある種のナルシシスムのために友情も必要だったのだ。おそらく恋愛も必要だつただろう。自分が詩、もしくは文学と信じているものを作り出すためには、素材としての現実がともかく必要だつたのだ。友人や恋人について彼が抱くイマージュだけが取り敢えず重要であり、対象としての生身の存在は、極言すれば、彼にとって、何ほどのものではなかった。後世に美しい手紙を残したかったのだ。
 これは私がいま考えている詩人の在り様とは正反対のものだ。というのも、真に価値をもつのは現実のものであって、私たちのエクリチュールではないからだ。真に価値をもつのはサスキアであり、ティトウスであり、ヘンドリッキェである存在そのものだ。
 私たちがその存在、その現実をどのように見て、どのように捉えるのか、この点に、詩人の、あるいはレンブラントのようなすぐれた芸術家の特性が宿る。現実のものにむかう視線のひとつの在り様、それを愛となづけることもできよう。」
  全くなんという文章なのだろう。そして、せっかちな私はサスキアって何? ティトウスは? ヘンドリッキェは? と思い、疑問があってもいつものようにほったらかしていて、現実というと、今わたしには、イラクや子どもの殺し合いのことだから、このカタカナは怪物のような物だと思っていた。
  ところが、ところがである。サスキアとはレンブラントの最初の妻であり、すぐ死ぬのだが、大変美しく
「フローラに扮したサスキア」というなんとも愛らしい絵がある。サスキアはティトウスを産んだ後、お産で死んでしまう。その後、ティトウスも死ぬのだが、ヘンドリッキェという家政婦と一緒に暮らす。
 とても深みのある落ち着いた女性で、後に描くハテシバはヘンドリッキェであろうといわれている。なんども結婚と離婚と死別に遭い、とうとうレンブラント自身がしぬのだが、最後に娘が一人残る。
 映画「レンブラント」をわたしは思い出したのだ。
そして、ティトウスも思い出した。ティトウスはローマの皇帝コンスタンチヌスの息子のことなのだが、このお父さんの皇帝はなかなかのやり手で、はじめてキリスト教をうけいれ、コンスタンチノーブルに奠都する。大変なけちで公衆トイレをつくり、お金をとって儲けたのでみんなに評判が悪かった。けれども、息子のティトウスはやさしい、大変聡明な息子であったらしい。外国にちょっとした戦争にでかけたのだが
彼はあまり戦争が得意でなく、いのちからがらローマに帰ってくると親馬鹿コンスタンチヌスは大いに
喜んでローマに美しい凱旋門をたててあげたのです。ナポレオンがこの凱旋門を気にいり、パリにこれと同じものを立てたというのです。モーツアルトには「慈悲ぶかいティトウス」というオペラがあるそうですが
私はきいたことがありません。
 というわけで、清水茂氏のいう「現実」というのはわかりましたが、私にはすこし美しすぎるとおもいましたけれど。まあ、それでも面白かったです。
  

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