「月曜の朝のプールでは」川口晴美   デジャヴュのような

月曜日の朝のプールでは  川口晴美
つめたいみずのにおいがする
水飛沫をくぐって
深いところへ躰を沈ませると
青く塗られたプールの底に室内灯の光が揺れ
消えて届かない音のように 揺れて
薄いヒフに包まれている体温のかたちが
浮かびあがってくる
壊れそうに
泳いでいく
なまあたたかいみずのなかを漂うような七月
駅へ向かう道の隅で さっき
短い泣き声を聴いた気がした
みあげる集合住宅の窓はどれも同じかたちで
誰かの悲鳴 それとも
快楽の叫びだったのだろうか
どんな声だったかもう思い出せない
どこからか降りそそいで染み込んだ
夏の光に似た一瞬の痛みが
泳ぐ躰の内側でまだ揺れている
わたし
だったのだろうか
クッションに顔を埋めて一人で泣いたのは
わたしかもしれない誰か
湿度90パーセントの世界で
濡れたヒフは
隔てられ眠っていたそれぞれの痛みを
浸透させてしまうから きっと
数え切れないかなしみのみずが
混じりあい ひっそりと波立つのだろう
プールサイドでは
耳の中に入り込んだみずが
届く音を歪ませる
いいえ 地上は歪んだ音に満ちあふれていて
震えるみみを傾けると
飽和してこぼれた雨の最初の一滴のように
落ちていく滴は
少しだけわたしのかたちをしている
 
 まず私がこの作品を読んで感じたことは、どこかでいつか私もこれと同じような体験というか、感じたことがあるということです。それは必ずしも、全く同じというわけではありませんが、それにもかかわらず、私には「似ている」という感じがするのです。
 それはこの詩そのものから来るのか、それとも現代という時代性から来るものなのか、はっきりとはわかりません。現代(と私という存在)をことばで描こうとすると、もしかしたら自ずとこのようになるのかも知れません。自ずといいましたが、でも、そのためにかなり高度な技術やトリックが必要なことだと思います。
 
水、プール、街などといった物と人の気持ち、感情、意識を結びつけたり、同化させたり、融合させたりすることば、これらが恐らく、この詩の技術であり、トリックであると思います。
 それがとても見事にできているために、この詩の中心部分(第二連)には、詩でしか表現することができない叙情が感じられます。
 人が生きていくためには、いつの時代にも、真実とか、正義とか、愛といった、なにかしら絶対的な基準
というか、よりどころを求めるのだと思います。しかし、現代は、それだけではいきていけない。
 それだけだと、けつまづいたり、傷ついたり、傷つけたりしてしまいます。
 現代を認識し、そして生きるためには、技術とトリックが欠かすことできない。
 私はこの詩を読んでそんなことを考えました。
 そして、もしかしたら現代というのはデジャヴュの世界かも知れないと、あるいはカフカがイメージしたとおりなのかも知れないと。

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