「ハドソン川のそば」白石かずこ  現在とエロス

ハドソン川のそば    白石かずこ
誰から生まれたって?
ベッドからさ 固い木のベッドから
犬の口から骨つき肉が落ちたように
落ちたようにね
わたしの親はまあるいのさ
月のようにのっぺり
やはり人間の顔してたのさ
人間の匂いがしてたのさ
くらやみの匂いがね
黙ってる森の匂いがね
それっきりだよ ニューヨーク
ハドソン川のそば
わたしはたっている
この川と わたしは同じ
流れている
この川と わたしは同じ
たっている
広すぎてはかれないよね おまえの胸巾
遠すぎてはかれないよ おまえの記憶
生まれた頃まで さかのぼることないよ
わたしの想い出
行き先も今も ただよう胸の中
自分でも はかれないのさ
ハドソン川のそば
ちぢれっ毛の
黒い顔の子 やせて大きい目だよ わたしは
笑うと 泣いてるように
顔がこわれて ゆれだすよ
唄うと 腰をくねらせ
世界中が 腰にあるように 踊るんだよ
名前はビリー
すぎた日の名は知らない
わたしの生まれた 空を知らない
なんていう木か 兄弟のハッパがあったか なかったか
わたしは生まれた うまごやを知らない
ワラのべっどか 木のとこか
それでも わたしはそだった
果実の頬のように
果物屋の 店先で
買えない果物みてるうち
肉屋の店先で
切られていく 豚の足をみてるうち
ハドソン川のそば
ひとりで いまはたつ
すこしおとなになったわたしかかえ 
わたしのグランマー グランパー
いとしい恋人 ハドソン川
わたし 流れていくだろうよ 川と一しょに
わたしの胸の中 太く流れるハドソン川と
わたしの胸の中 わたしと流れるハドソン川と
 
 
 私が初めて、この詩を読んだのは、20年位前、私が四十四、五歳の頃だったと思う。それ以来、いままで
ずっと私の中でハドソン川が流れ続けている。はじめの印象は大変強烈なものだったに違いないが、それにもかかわらず、読む度にまったく新しい川が私の中に流れる。
 
 そして、今また、<わたしはたっている この川と わたしは同じ 流れている この川と
 わたしは同じ たっている><いとしい恋人 ハドソン川 わたし 流れていくだろうよ 川と一しょに   わたしの胸の中 太く流れるハドソン川と わたしの胸の中 わたしと流れるハドソン川と>と読んでいくと私はハドソン川と一しょだ。
つまり、この詩はいつ読んでも私にとっては《現在そのもの》なのだ。《現在》というものは大変不思議な
ものだ。特に、私の《現在》は。
 
 誰かと話しているようでもあり、ひとり黙っているようでもある。生まれたことが気になるようでもあり、そんなことはどうでもよいという感じもする。しかも、生まれたときから、人間の匂い、くらやみの匂い、黙っている森の匂いが感じられたりして、それが自分の匂いのような気もして、(私はこの詩に根源的なエロスを感じてしまう )。
 
 はじめに私の中をハドソン川が流れていると書いたけれども、もしかしたら、このハドソン川がエロスの根源そのものではないかとも思える。ハドソン川が私の中を流れているのか、あるいは私がハドソン川の
中をながれているのか、わからない。このわからないままにしてしかかんじられないものが、この詩にはある。それがエロスかも知れない。
 大人のようで、子どもで、子どものようで大人で、女のようで男であり、男のようで女である。
 このようなエロスなのだ。
 こういうふうにいうと、いかにも非現実のようにかんじられるかも知れないが、それは違う。その証拠に
この詩がある。
 あらゆるものをできる限りオープンにすると、秘密は秘密でありながら、秘密でない。
 それがこの詩の方法であり、そこになにかしら、根源のようなものを感じる。

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