向こうに パウル・ツェラーン 中村朝子訳 ドイツ
栗の木々のあちら側にはじめて世界がある。
あそこから夜には 一つの風が雲の車にのってやって来て
そして誰かがここで起き上がる……
かれを 風は栗の木々の向こうへ運ぼうとする、
「わたしのところには オオエゾデンダが生え そしてジキタリスがわたしのところに!
栗の木々のあちら側にはじめて世界がある……」
するとぼくは ひそやかに イエコオロギのように鳴く、
するとぼくは かれをひきとどめ、それでかれは邪魔される、
間接のまわりには ぼくの呼び声がのしかかっているのだから!
風が幾夜も戻って来るのを ぼくは聞く、
「わたしのところには遠景がもえている、あなたのところは狭い……」
するとぼくは ひそやかにイエコオロギのように鳴く。
だが もし夜が今日もまたあかるくならず
そして風が 雲の車にのって戻って来るのなら、
「わたしのところには オオエゾデンダが生え そしてジキタリスがわたしのところに」。
そしてかれを栗の木々の向こうに運ぼうとするならー
するとぼくは、するとぼくは かれを ひきとどめない……
栗の木々のあちら側にはじめて世界がある。
この詩の面白いところは、観念的つまり非現実な世界であるにも関わらず、どこか具体的リアリティが
感じられることです。
それは1行目の<栗の木々のあちら側にはじめて世界がある>ということばに感じられまする
<栗の木々>とは大変現実の世界で、それに続く、<あちら側にはじめて世界がある>とは大変観念
的な世界です。
この(世界)がどんな世界であれ、(たとえばあの世であれ)、いま詩人が生きている現実とは違う世界であることは確かです。
普通、現実と異なる世界を隔てるものは海だつたり、あるいは空だつたり、あるいはドアだつたりするわけですが、ここでは、それが栗の木々になつています。
多分、栗の木々が詩人の生きている場所からそれ程はなれていないし、もしかしたら、目に見えているのかも知れません。だから、そこから雲の車にのってやって来る風を詩人そしてこの詩人そしてこの詩
を読む私達も感じとることができるのでしょう。
また、<風が運ぼうとするかれを、ひきとどめるぼくはひそかにイエコオロギのように鳴く>、これも大変
リアルな感じがします。
最後に、<風か戻ってくるなら、ぼくはかれをひきとめない>とありますが、こういったところも現実と観念のはざまになりながら、大変リアルな感じがして、なんとも不思議です。現実とそれとは違う世界をこんなふうに表現している詩を私は他にしりません。多分、ことばによってしか表せない場所もあると感じさせます。
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