かれらの内には土があった パウル・ツェラーン 飯吉光夫訳 ドイツ
かれらの内には土があった、そして
かれらは掘った。
かれら掘った、そして
かれらの昼は夜はすぎていった。しかもかれらは神を讃えることがなかった、
これらすべてを望んだという神を、
これらすべてを知るという神を。
かれらは掘った。そしてもはや何の声もきかなかった——
かれらは賢明にならなかった、何の歌も作りださなかった、
何のことばも考えださなかった、
かれらは掘った。
静けさが来た、嵐がきた、
海がこぞって押し寄せて来た。
ぼくが掘る、きみが掘る、そして土のなかの虫が掘る、
するとかなたで歌っているものがいうのだ——かれらは掘っていると。
ああだれか、だれひとりでも、だれでもないもの、きみよ——
どうなったのか、どうにもなりようがなかったのに、
ああきみが掘る、ぼくが掘る、ぼくは
きみのほうにむけてぼくみずからを掘る、
するとぼくたちの指に、指輪が覚めている。
これほどまでに自分の内部を掘ることが本当にあるだろうか? 掘らなければならない状況があるのだろうか? 恐らく、これは自分を見つめるとか、あるいは孤独とかいうものではない、全然別のことのようだと思います。
むしろ、掘ることは全く意味がない、それでも堀りつづけなければならない、恐らく、こうした状態を続けていると生きることも全く意味がないということになるに違いないと思います。それを意味づけようとして、
<かれやぼくの内側>ということばで支えてみますが、そこにあるのは、<土>でしかなかった。
掘るから土があるのか、土があるから掘るのか、殆どわからない。これほど、掘ることが無意味であったということだと思います。しかし、それにもかかわらず、<静けさが来た、嵐が来た……………かなたで歌っているものが——かれらは掘っていると。>
人間の犯しがたい意志が感じられます。
そして、最後の連は<きみ>や読者に向かって呼びかけているのです。たとえどのような無意味な
生を強制させられているとしても。
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