ぼくは聞いた パウル・ツェラーン
ぼくは聞いた、水の中には
ひとつの石とひとつの輪があると、
水の上には言葉があって、
この言葉が石のまわりに輪をえがかせていると。
ぼくは見た、ぼくのポプラがこの水の中におりていくのを、
ぼくは見た、ポプラの腕が深みへとさしのばされるのを、
ぼくは見た、ポプラの根が空へむけて夜をねだっているのを。
ぼくはぼくのポプラのあとを追っていきはしなかった。
ぼくは地上から、きみの眼のかたちと
きみの眼の気高さをもつパンのうちらをひろっただけだ、
ぼくはきみの頸から箴言の鎖をはずして
パンのうちらのちらばったテーブルのまわりを縁どった。
それからというもの、ぼくはポプラを見ない。
すぐれた詩は一度読んだら、決してわすれられないものです。しかも思い起こす度に、まるで初めてこの詩に出会ったかのような新しい不思議な感じがします。この詩もその中のひとつです。特に一連目に
私は強く感じます。この一連目は詩でしか味わうことのできない喜びを私に与えてくれます。
<水の上に言葉があって>この言葉が水の中の石のまわり輪をえがかせている。これはなんでしょう。
これは、私にとってあたかもひとつの奇跡をおしえられたようです。しかも、私は水を見るとき、必ずこの
奇跡がわたしの内によみがえってくると信じます。
つまり、これが詩だけがもたらす喜びです。
恐らく、この連は詩人にとって、何ごとにもかえがたい宝であったに違いありません。
こういってもいいかも知れません。神の贈り物であったと。
たとえ、この詩を書いたとき、神がいかに詩人からとおくへ逃れてしまったとしても。
そして、<ぼくは見た、ぼくのポプラ…>のこの<ぼくのポプラ>は恐らく詩人自身と考えていいのではないでしょうか?
ただ、逆立ちしているのは、とても怖いような悲しい感じがします。
<きみ>はなつかしい人でもあるし、神であるかも知れない、母親なのか、恋人なのか、大切なひとなのでしょう。その人のほんのわずかなおもかげが日常の生活の中でちらとかすめたのでしょう。けれども
その奇跡のような喜びのなかに逆立ちまで追いかけていきはしなかった。
最終行は自分の奇跡とか無垢なものにたいするあきらめも感じられます。
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