「その理由」田口ランデイ

「その理由」田口ランディ  こんなにへんちくりんな女みたことがない。大好きになった。
 その男は、珍しい死に方をした。
 どういうわけか、男は古い便所の浄化槽の中から遺体で発見された。そこは取り壊された作業小屋の
跡地で、今はつかわれていない便所の浄化槽だけが地中に残っていたのだ。昆虫採取をしていた少年が、偶然浄化槽の穴を覗き込んで、そこに人間の頭が見えたと言って騒ぎ出し、駐在さんに発見された。
男の失踪から七日目のことだった。
 その浄化槽のわずか直径三〇センチの入口から、男は中にはいったらしいのだ。
 当初は殺人事件として調査された。
 でも、調査が進むにつれて、どこかで殺されて狭い浄化槽の中ですてられた可能性は薄れていった。男には外傷というものが全くなかったのだ。死因は酸欠による窒息死だった。その浄化槽は胃袋のよぅな
形に曲がっていて、男はその狭い浄化槽の中にすいこまれたように見事に収まっていた。まるで最初からその浄化槽の中で生まれて、その中で成長したみたいに。そして、成長しすぎた挙句、そこで窒息死してしまつたみたいに見えた。だから男が発見された時に、男の死体を浄化槽から運び出すために、浄化槽そのものを壊さなければならなかったほどだ。
 浄化槽はパワーショベルで掘り出された。地中から出てきた錆びた浄化槽は、なんだか古びた核シェルターみたいだった。それから、掘り出した浄化槽を巨大な電動のこぎりで切断したのだ。そうしたら、卵の中からひよこがでてくるみたいに、丸まった男の腐乱死体が出てきたのだ。
 誰が考えても、この浄化槽に死んだ人間を押し込めるなんて不可能だった。こんなにぴったりと腕を組んで美しく収まるわけがない。つまり、男が自分からこの中に入ったのだ。そうとしか考えられなかった。
まるでエジプトのミイラみたいに手を胸の前でクロスさせ、膝を折り曲げた状態で男は死んでいた。なんだか孵化する前の蛹みたいだった。
 
 それにしても何のためにこんなところにはいったんだろう? と、町中の誰もが思った。二八歳のごく普通の男だったのだ。どちらかといえばインテリだった。ラテン文学とジャズを好み、町役場に勤めていた。まあ多少気難しいところがあるにしても、心優しい普通の男だったのだ。自分から好んで便所の浄化槽に入り、死ぬような人間ではなかった。
 だったらなぜ? なんのために?
いろんな噂が流れた。誰かに脅かされて入ったんじゃないかとか、覚醒剤を打ってたんじゃないかとか
実はスカトロだったんじゃないかとか、もうありとあらゆる噂が流れて、ありとあらゆる憶測が飛び交ったけど、男が死んだ後では、誰も想像以上に真実に近づくことはできなかった。
 
 ある時、偶然にテレビの「B級事件特集」でこの事件を知った。妙に心が動いた。いったいなぜこんな奇妙なことが起こるのか?考えても考えても私には、さっぱりわからなかった。だって、人間がだよ、汚くて臭い便所の浄化槽に、しかも入ったら絶対に出てこられないような狭い浄化槽に入ろうとするだろうか。入るためには相当の努力が必要だつた。
 普通の人が実地検証したんだけれど、この浄化槽にすっぽり入るためには肩を一カ所脱臼しないと入れないと言うんだ。でも、なぜか男はすつぽり入っていた。男は小柄だったから脱臼をまぬがれたのかもしれない。そこまでしないと入れないほど狭いところに、なぜ入ろうと思う? そんなこと、いくら考えたって入ってしまった男以外にわかるわけがない。
 わかるわけがないのだけれど、私は考えないわけにはいかなかった。
 それからというもの、この疑問は頭の中に張られた蜘蛛の巣みたいに、いつも前頭葉にひっかかっているのだ。私は、長いこと男の死について考えると気分が悪くなった。あまりにも不可解で、私の理性は不可解さを受け入れ難く、考えると吐き気がしてくるのだ。男の死について考えることを体が拒否するのだった。このあまりの不合理な男の死は、私のつたない人生経験では納得も解釈もできなかった。お手上げだった。私には男の死を理解するどんな手がかりもなかった。それでも考えないわけにはいかず、でもいくら考えても結論は同じ。全く見当もつかないのである。
 来る日も来る日も考えたけど、わからなかった。わからないのに、考えずにはいられない自分に疲れていた。で、ふと気がつくといつも男のことを考えている。なぜ、なぜ、なぜ……。どうしても答えがほしかった。私を心から納得させてくれる答えがほしかった。でも、誰も私を納得させてはくれなかった。男の死は
あまりにも不合理すぎた。
 
 
 ある日、私は仕事の打ち合わせで東京に出た。湯河原わ出たのは久しぶりで、私は用事を済ませてから久しぶりに映画でも観ようかと思った。何かに熱中している時は男のことを思い出さなくてすむ。身軽になりたくて、荷物を東京駅のコインロツカーに預けることにした。どのロッカーも混んでいて、私は北口の地下にある人目につきにくいコインロッカーまで歩かなければならなかった。古びたロッカールームは駅の死角にあって、そこだけがひんやりと静かだった。ロッカーを開けて、私はふと思った。
(ここに入れるだろうか……)
 なにを馬鹿なことを、と打ち消したのだけれど、いちど浮かんでしまった思いは私の理性を押し退けてごんごんと私に迫ってくる。
(このロッカーの中に入ったら、男の気持ちがわかるんじゃないだろうか)
 コインロッカーはとうてい私が入れるような大きさじゃない。だけど、なんだか無理をすれば入れるような
気がした。うちは小柄な家系だ。きっと入れるという奇妙な直感だ。きっと入れると思ったとたん、どうしてもはいってみたくなった。入ったらすべてわかると思った。すべてわかると思ったら、もう逆らうことはできなかった。
 私は頭を突っ込んでみたが、頭から入るのは無理そうだった。下から二段目のロッカーを選んで、そこにまずまず足を突っ込んでみた。足はするすると吸い込まれるようにロッカーの中に入った。それから体を折り曲げてお尻を入れてみた。ぎゅうぎゅうと力をこめて腕を支えに尻を突っ込んでみた。ぐいっぐいっとふんばると、食い込むように腰がロッカーに入る。
 いける……、と思った。もう夢中だった。それからなんとか上半身をいれようと思うのだけれど、これが難しい。胸から上の部分がどうしても収納できない。さらに体をロッカー全体に押しつけ、そして顔を胸にすりつけるようにして頭を突っ込んだ。もう目は自分の膝しか見えない。これで扉がしまるだろうか?私はかろうじて使える手で、手探りしながらロッカーの扉を自分で閉めた。
 扉は、あっけなくぱたんと閉じた。
 すごい静寂だ。
 妙な満足感が湧き上がる。 男もこんなきぶんだったに違いないと思った。いったい何を試したくて男が浄化槽に入ったのかわからない。でも、そうなんだ。理由のわからないことを解決するためには、理由のわからないことをやってみるしかないんだ。だから男も何か考えても考えても考えてもわからないことがあって、そしてきっと便所の浄化槽に入ってみるしかなかったんだ。
 えもいわれぬなごやかなで満ち足りた気持ち。こんなに気持ちの安すらいだことは生まれてから一度もなかったような気がした。苦しさは気にならなかった。ひどく息苦しいがなんとか呼吸はできる。
 静かすぎるくらい静かだった。暗くて狭いロッカーの中は、まるでこの世のものとも思えない静謐さだ。
 自分が空間に最大限に存在していることの喜び。世界と自分に隙間のないことの心地よさ。私と世界とは一つだと感じた。
 ずっとこのままでいたかったのに、誰がふいに扉を開けた。
  「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」

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