李禹煥とMARK ROTHKO

水野るり子さんがLEEUFANのことを書いていて、懐かしく思った。リーウフアンは韓国の画家で色がついた墨絵のようで、何とも云えない静けさと透明感がある。いかにも東洋の画家という感じがする。この絵のような詩を書いたひとがいて、その詩人は半分画家でもあったので、坂を登ったり降りたりするという
詩で、悩んだり迷ったり待っていたりするのだが最後に坂を登り切って、やっぱりお詫びをするのがいちばん
いいとかいう詩だった。蟹澤奈穂さんの詩だった。なぜ、その詩を読んだとき、LEEのことを思い出したのか知らない。たぶん、あのひとの絵には色の諧調があってそれが逡巡のようにもゆるやかな
思いのながれのようにも感じられたからだと思う。とても繊細ないい詩だった。
 水野さんがリーの絵には宇宙の芯があると言ったのも面白かった。
 わたしはいま頃になると、カレンダーを探しいくのだが、前に好きだったカンデンスキーもセザンヌもフェルメールもダンテ・ガブリエル・ロセッティもピカソもカスパール・ダビット・フリードリッヒもあまり感じられなくなっているのに驚いた。いまはロンドンの新しいテイト・ギァラリーでもパリのポンピドーでもお茶の水のコーヒー屋でもROTHKOがおおもてだった。LEEUFANもROTHKOもたいへんな抽象画でこの地上では
存在しないような模様なのか。いや、単に模様ではない。わたしたちがいつか宇宙旅行にいったときに見るもののような気がする。なぜだろう。Rothkoの絵は光と闇が混じりあっていて、宇宙にいった人間が地球の思い出にみる、暑かったり寒かったり雪がふったりする風景を自分の体の熱のように思い出すのだと思う。たとえば、映画「マジソン橋」
の信号がちかちかと点滅する別れのシーンのようなものがわたしたちのからだのなかに残っているのではないだろうか。ああいうものをことばにするのは、とてもむずかしいけれど。けれど、ROthkoの絵にはリァリティがある。わたしたちのよく知っている体の記憶が。もしかしたら、それは映画とか、音楽とかノイズかも知れないからだのなかの記憶なのだろうか。それとも遠い幼い頃に感じた匂いや味や体を通して感じとった映像なのだろうか。川のながれやしょうじのにおい、たくさんの声、犬や馬の体のにおい。いろいろな記憶、手でさわったもの、火のにおい。意外に匂いって重要だね。絵には匂いがないとおもうけど。
あるのかしら。

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