le mistere kumiko

  ちょうど、東京でオリンピックが開かれた頃だった。クミコとわたしは相変わらず飢えていた。この飢えは
どういう訳か、クミコとわたしをつきうごかしていたような気がする。なんとかして、この飢えから解放されたかった。わたしたちはなるべく助け合っていたが、それでも、母から贈ってくるちいさなお金ではなんにもかえなかった。まず帰りの電車賃を計算して、それを取り除いてから、食べ物を買った。クミコは食べ物に独特の感覚を持っていて、その情熱はパリに行っても変わらなかった。いまでも、江戸川橋の高級マンションのなかで、45年前の鯖の水煮と鮭の缶詰を買ってきてみんなでたべてびっくりした。それから、キュウリのニンニクとヨーグルトあえなぞしてびっくりした。彼女は25歳で離婚して、大阪から東京に兵隊ベッドと録音機を持って夫から逃れてきたばかりだった。彼女は3畳の高円寺のアパートに住んでいて
会ったときから、45年たったいまでもただただハルビンのことばかり話している。この間はハルビンの光と影について話した。
 彼女はオリンピックのあたりに有楽町の丸いビルの4階に勤めていたが、そこは「バリマッチ」というフランスの新聞社がひとつのフロアを借りていたのだとおもう。そこにジュグラリスという記者がいたのだ。
 クミコは時々4階から降りてきて、フランスパンを買ってきて、4階から降りてきた籠にパンを入れると柴田さんという映画青年が籠についたひもをひっぱってパンをひきあげた。
 あるとき、クリス・マイケルという映画監督がやってきて、クミコのこころを虜にした。彼は背の高いひょろ長い男でクミコという若い女と日本という国のことをドキュメンタリータッチでえいがを取り出した。
 音楽は武満徹だった。いまから考えるとこの「ふしぎなクミコ」という映画はなかなか面白い映画だったが、そのときはクミコと日本とが何の関係があるのかさっぱりわからなかった。なぜなら、クミコこそ日本
からあまりに遠い女は他にはいなかったからだ。しかし、フランス人が見た日本という東洋のなかでも何か非常
にミスティックな部分をクミコという女を通してかんがえているということは、大変おもしろいものだった
 この映画監督は「ラ・ジュテ」という映画をとった。アラン・レネやゴダールと同じヌーヴェル・バーグの映画
をつくっているようだった。このもはや中年の男が最初にクミコのことを不思議なクミコといったのだが、それだけはなかなかほんとのことだと思って、わたしも賛成するのである。

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