大人になって少しわかったこと2 「愛はあまりにも若く」

  ファンタジーといえば、どんな小説よりも魅惑的なこの物語を数年間何度も読むことになった。前にフォークナーの小説もかなり深く面白いと思ったが、でも、もう一度ふりかえる程のエネルギーがないような気もする。なぜわたしたちは、ファンタジーを読むのかはだれにもわからない。恐らく、どこのだれでも、つまり、おかあさんか、おばさんか、おばあちゃんか、わたしたちのすぐ側にお話の上手なひとがいて、ひとりの人が「百年の孤独」ぐらいの物語というか、情報をごく自然に伝えてくれていたのだろう。プーケットで恐ろしい津波が起こったとき、わたしたちはだれもあんな津波にであったことがないと思った。アメリカから
インドネシアに「これから一両日の間に巨大な津波がそちらにいくから、気をつけて欲しい」と連絡したところ、インドネシアでは誰もそんなことは経験したことがなかったし、はなしにも聞いたことがなかったのでので、受け取った者がにぎりつぶしたそうである。車から建物が破壊したかけらから、冷蔵庫やタンスやおおきなバスからその他一切合切の日常物質がゆっくりと殆ど静かにと思えるぐらいの水が道路を渡ってやってきたとき、それを見ていた人々はもう助からないぐらいの危険な状態にあった。20秒ぐらいであったかもしれない。海が干上がって不思議なことがあるものだなんて呑気なことを言っていたこともあった。かなり、遠くに白い波の壁が
こちらの岸辺に近づいて来たかと思うともうなにもかもがまきこまれて誰も逃げられなかった、とかあのヴィデオフィルムをとったのは誰だろうとか。ずっとたってから、わたしたちは何千年も前なら確かにありうるのだろうと考える。なぜなら聖書にだって大洪水は書かれてあるからだなどと。
 物語は確かに必要だ。特に鬱になつたとき、ちらちらと夢にみるような物語は必要だ。とくにナルニア国の物語の次に書かれたC.S.ルイスの最高傑作は。子どもの物語ですらあれほど魅惑した「ライオンと魔女」の次の最初で最後の傑作は。愛といってもいろいろある。親や子どもへの愛もあれば、兄弟や姉妹、兄と妹も姉と弟も。死んでしまった肉親を捜してどこまでもどこまでも、北の氷のくにまで汽車にに乗り継いでいったのは、宮沢賢治でなかったのか?しかし、妹プシュケーを探して灰色の山の神々と争った
姉オリュアルのような物語はあまりない。なんともいえない魅力である。人間の世界では獣とさげすまれているキューピッドはあちらでは美しい若い神なのだ、でたらめのようにもおもえるけれど、伝説や悲恋や神話はどんなふうにこの世に現れるのか、そして神は?人間の真の姿とは?ファンタジーなら信じられる
、たまには何度も何度も読んでみたくなる。小さいときお母さんをなくしたルイスはナルニア国でそれを食べると重い病気で死にかけたおかあさんが生き返る魔法のりんごを発明する。こんな人、みたことがない。物語はわたしたちに必要なのである。戦後わたしたちは物語などなくても生きていけると思っていた。しかし、津波ひとつとってもひとりの人間の経験だけでは理解できないものがあまりにもおおくあるからである。
この本はC.S.ルイスの「愛はあまりも若く」である。

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