「あらし」井坂洋子  境界に生きる

   あらし      井坂洋子
木々との婚約時代もすぎた
風雨が細枝をちぎり
震動が木を降りるが
間断なしに
走査線に運ばれてくる
テレビ電波が脳髄に侵入し
たぶたぶ揺れ 腹をくだっていく
便座で尻の輪をつける 一家族のしるしが
うすれる時刻にまた帰ってくれば
異形の者になっていても
気づかれないか
地殻を両足で踏んで
震動がのぼってくる快さに歩く
ざんばらの風を私流に受け
港まで来てみるが
なにも考えられない
メサイヤコーラスのない貧しさだ
店に入り
蒸したアサリを
食欲のせいではなく口に入れる
燭台のあかりが床におちるあたりに
店の番犬がすわっている
組立自転車も一台 あがりかまちの暗がりで
きちんと身を折って
犬と 荒れた海を見たいと思う
断末のくるしみと向き合うときの従順さで
ふだんは狭い庭を一周し
文句を言わず
バッタの足などを夢中で噛んでいるだろうが
倦まないお前と
地のおくるみの中で
息をひそめて降誕を待つ間
あらしは通り過ぎるだろう
埠頭の鳥たちが違った空気の層からうまれ
擾乱し
朝日に吸収されいくとき
一回だけつよく
ギャーと啼く声をいっしょに聞くのだ
  この詩を私が好きなのは、詩全体に何ともいえないユーモアが感じられるからです。それがこの詩人の生来のものであるかはよくわかりませんが、この作品にかぎっていえば、ことばそのものにユーモアの
機能があるようで、そうなると、やはりこのユーモアはこの詩人生来のものということになると思います。
 ユーモアはたとえば、
<風雨が細枝をちぎり 震動が木を降りるが>
<テレビ電波が脳髄に侵入し たぷたぷ揺れ 腹をくだっていく>
<便座で尻の輪をつける 一家族のしるしが>
というふうに次から次へといくらでもあげられます。そして、肝心なことはこれらのユーモアが決して同じものではなく、少しずつ微妙にちがっているいうことです。
 それらのことばは読んでいくうちに、、私の中で何かがぐらぐらっとしたり、ぴょんぴょん跳ねたりして、何かしら自由というか、それでいていつのまにか未知の世界に入ってしまったような不安な感じになります。その世界は人と物、内側と外側、昨日と今日等々の境界ではないかと思います。その境界を生きようとすると恐らくユーモアが必要なのかも知れません。ただここで注意しなければいけないことは、ユーモアといっても決して笑いや楽しいことだけではなく、この世の始まりののような、あるいはいちばん深い所からきこえてくる声さえ含まれているということです。そのことはこの詩の最後で感じられます。
 もしかしたら、現代の現実を誠実に生きようとして、それをなぞっていくと、こうしたことばのユーモアの
機能が是非ともひつようなのかも知れません。というのは、この詩には、「脳髄に侵入するテレビ電波」
「便座の尻の輪で確認される一家」「食欲のせいではなく口に入れる蒸しアサリ」など現代生活の一部が注意深く記されているからです。それはあたかも、短編小説のエッセンスのようであり、それがこの詩の面白さであると思います。

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