ツワブキ 村野美優

パソコンが半月ばかり修理に出ていたので、ご無沙汰しました。私は「ひょうたん」という詩誌の同人ですが、10月に届いた48号のなかに、好きな詩がありましたのでご紹介します。
        ツワブキ            村野美優
                                                                                                      
グリースでつやつやにした
深みどりのグローブで
まいにち夏の陽射しと
             
キャッチボールしたから
   
 ツワブキは秋になると
 からだじゅうに漲る
 太陽光で発電し
 頸をのばして
 道端や丘の裾を
 照らしはじめる    
            
 この家の裏扉にも
 今年はじめて
 ツワブキの明かりが灯った
 しゃがんで顔を近づけると
 あまずっぱい
 夏の子どもの匂いがした
 やがて冬の風に
 明かりを吹き消されてしまうと
 キツネ色の毛皮の帽子をかぶって
 ツワブキは旅に出る
 風に乗り
 雨に乗り
 どこかべつの片隅へ
 また陽射しと
 キャッチボールするために 
      ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””” 
擬人法的な書き方で、ツワブキの生き生きした表情とありようが、クローズアップされてきて
やあ、ツワブキ君!と話しかけたくなりました。親しい仲間だったことに気が付いたみたいに。
第一連と最後の連とが呼び合っていて、最後まで読んでもう一度最初の連に戻った時、わ、
やられた!という気になりました。3連の”夏の子どもの匂いがした”もいいですね!
村野美優さんの詩には大地にしゃがんで(あるいは寝ころがって、)草や花々や虫たちと同じ
位置から、この世界を感じ取る子どもみたいなまっすぐな感性が感じられます。それが読み手
の心を解放してくれるのかもしれません。
私はこのところ、読書会で賢治の童話作品を読んでいるのですが、彼の物語を読んだ後などに
道端の木々や草花や電線や人々といっしょに私も、物語の続きのなかを歩いているような錯覚に陥りかけます。植物だったら異世界に移植された感じとでもいうのでしょうか。
作者のみずみずしい感性とその描写が、読み手を日常から引き抜いて異世界へ連れて行く
…というか、ほんとうの現実の明度に気づかせてくれるのかもしれません。この詩を読んで、
ふとこの賢治体験を思いました。
      

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ささやかなこと

先日土曜美術社から新・現代詩文庫が出版された。
たくさんの方からお手紙をいただいて有り難いことと思っています。
未刊詩篇の項目の冒頭に、「死んだ犬に」という詩を置いた。詩みたいなものを意識して
書き始めたのは、どうもこの詩あたりがきっかけだったような気がする。(日記みたいな
詩はずっと書いていたけれど)。この詩はナイーブな詩で恥ずかしいが、死んだペルに敬意
を表してどうしても入れたかった。
ペル(迷い犬の野良)は真っ白い犬だと思ったが、洗ってみたら、横っ腹に薄いベージュ色
の斑点が一つ浮き上がってきたので、はじめは真珠を意味する《ペルル》にしようかと思っ
ていたが,一字減らして「ペル」にした。
その頃家は埼玉県の新開地だったので、家の前は麦畑やイモ畑が広がっていた。夜だけ
放してやった時、ペルは嬉しそうに駆けまわり、畑に撒かれた農薬団子にでもあたったのか、
夜明けに犬小屋の前に横たわってひっそり死んでいた。悲しくて、押し入れに隠れて泣いた。
ちょうど月遅れのお盆の日だった。太陽がぎらぎらする真夏だった。
ちょうどペルが苦しんでいた夜明け前、私は夢の中に立って、色とりどりの松葉ボタンの花々を
見ていた。なぜか忘れられない。もう何十年も前のことだけれど。

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秋の花の写真

CIMG0159.JPG
秋の花々の写真です。二日前の写真ですが、ススキの穂がもうほわほわと開いています。
今、台風が近づいていますが、箱根、仙石原のススキ野を見たくなりました。

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秋の花

とつぜん、昨日、秋の野の花々が友人から届けられて、我が家に涼しい秋風が吹いてきてくれた。
吾亦紅、女郎花、ホトトギス、リンドウ、野菊、そしてひときわ高くススキの穂が揺れているのは
音楽みたいにすてきだ。都会の真ん中で、秋の花々とお月見ができそう。
それで今日は「感傷的な草むら」という詩を書いた。
そうだ、あとで写真にしてみよう。

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ハーメルンの笛吹き男

オペラ「ハーメルンの笛吹き男」を見た。世界初演。作曲・¨一柳慧、台本・田尾下 哲、長屋晃一。
第19回神奈川国際芸術フェスティバルの公演だった。
私はかつて何人かの仲間たちと「ハーメルンの会」というのをつくっていて、詩誌というか、同人誌みたいなものを出していたこともあり、なぜか”ハーメルンの子どもたち”の伝悦には特に惹かれるものがあるので、とにかく見に行ったわけだった。
でもはじめからそんなに期待していたわけではなかったのに、だんだん引き込まれて、ついにはさかんに拍手している自分がいた!
台本は原作の伝説とは、終わりの部分が変わっていて、130人もの子どもが突然消えたというショッキングな結末は、町の大人たちや政治家たちの小賢しい分別にまさる子どもの純粋さが輝かしく
歌いあげられるものだった。それはだが、この時代への大きな批評や救いともなっていて、客たちに解放感与えてくれる気がした。
笛吹き男を演じた岡本知高(ソプラニスタ)の歌声もすばらしかったし、なぜか取り残された一人の子の口笛による演奏にも心奪われた。
しかし一番心に刻まれたのは、モーツアルトの子守唄の調べだった。それは笛吹き男が子どもたちをさらっていくときに歌う調べだった。ここにモーツアルトのこの曲を挿入した技術はさすがだと思った。のびのびと、優しく、子どもたちを夢という異界へ誘い込み、夢の中に解放して、自由に遊ばせる…さあ、この入口のドアをひらいてお入り…と。
大人たちは言葉を操ることで、分別を得て、夢と遊びを忘れ、自らをもう一つの檻に閉じ込めてしまうのかもしれない。
ある研究者が「モーツアルトはアルファベットの読み書きよりもはるかに早く音符の書き方に精通してしまい、言語より先に音楽に浸りきって、大人の分別とは別の能力を発達させすぎてしまった。…モーツアルトはついに大人の分別をうまく獲得できず、未成熟な子供っぽさを生涯抱えていた存在ともみなすことができる。それがモーツアルトならではの音楽を生み出す原動力でもあり続けたのではないか。」と述べているという。
そういうモーツアルト像と、笛の響きで子どもたちと共鳴し、彼らをたちまち異界へ連れて行ってしまうハーメルンの笛吹き男の姿はどうしてもダブって見える。このオペラが特にモーツアルト的なものと結びつくのには、ひとつの理路があると思う。と音楽評論家の片山杜秀氏は書いている。
なんだか途中からモーツアルト頌になってしまったが、今でもあの笛吹き男の歌ったモーツアルト
の調べが耳の中にしばしばこだましてくる。
さてハーメルンンの笛吹き伝説とは、この世界にとって、何を意味しているのだろうか。これが自分への問いのようにくりかえし聞こえてくる。

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木を植える

木を植える、というイメージは詩のなかによく登場する。そして印象に残る詩が多い。
東北の一本松は、残念ながら切り倒されて、人工的に形を再生され、記念樹としてもとに
戻されるという。けなげな松の木のイメージは世紀をこえて人々の記憶から消えないといい。
昨日、自分の若いころの日記を読んでいたら、一本の木として、自分自身を植える土地
を見つけたい…という言葉があった。まだそんな場所を見つけていないけれど。ちょっと
おもしろいなと思った。
ところで、だれでも心の中に懐かしい…あるいは忘れられない…一本の木を持っているのでは
ないか。私は子供のころ住んでいた家の二階の窓辺に枝を伸ばしていた(お隣さんの庭の隅
に立っていた?)一本のひのきのことが忘れられない。二階の窓際から手を伸ばして、小さな
実を取った思い出がある。木全体でなく、梢の先っぽと親しかっただけかも。
でも不思議によくその木を思い出す。身近にいた木の親友みたいなものだったかも。

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『夢宇宙論』より

信じられないほど長く雨も降らず、ただ暑さが続いている。むかし、ショーロホフだったかの
小説を読んだとき、「双子のような日々が」いつまでも…、という表現に出会い、慣れない表現
だったので、印象に残った。それがこの暑い日が毎日繰り返されると、突然よみがえってくる。
双子のように変わらない毎日の暑さ!だが、それどころかじりじりと暑さが増してくるように感じるのはこちらの体調のせいなのだろうか。やれやれ! 
と、つい村上春樹風につぶやいてしまう。
そんな日々に、柳内やすこさんの『夢宇宙論』の作品に触れると体感的に、涼しくなる気がする。
                   名前       
                                       柳内やすこ
 
ずっと昔
ずっとずっと昔
生まれる前の
光に満ちた天の草原の
小川のほとりで
私は誰かに呼ばれていたような気がする
それは
この世のどの言語にもない
低くて優しく根源的な響きで
短く繰り返される私の名前
無心に手で水を掬う小さな私を
そっと振り向かせ
微笑みをさせてくれた
遠い呼び声が
いつもそこにあった気がする
始まりの前であり終わりの後である世界には
ただひとつであり無数でもある名前で呼ばれる
白い子供たちがいて
いのちの灯されるまでの永い時を戯れながら待っていた
ずっと昔
ずっとずっと昔
呼ばれていたその名前で
いつかまた私が表される時が来るだろう
それは
この世のどんな音楽も奏でることのない
深くて荘厳な裸の調べで
誰かに歌われる私の名前
            ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
この世を去ってしまったら、もうモーツアルトの音楽がきけないな…と思ったことがある。
でもこのラストの連を読んで、ではそんな音楽を聞ける日がくるのだと…と思い直す。
世界が一つの音楽であればと思う。
           

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詩誌「ORANGE」から

中本道代・國峰照子・古内美也子さんの3人による『ORANGE』という詩誌はとても魅力的だ。
手のひらに乗るくらいの小さくて軽い詩誌だが、その内容は豊かで、詩を読むときめきを与
えてくれる。いずれもシュールな手法や新鮮な遊びにあふれ、根本には詩を生み出す自由
な精神があってそれらをそっくり読み手に手渡してくれる。
時折、風に乗って舞い込む一枚の葉のような詩人の夢の言葉に、私は愉しさと歓びをもらって
いる。
最近38号が届きましたが、今日はちょっと前の30号(2010年夏)から、中本さんの詩を
紹介します。
        五月の城                   
                                    中本道代
 
五月に行方不明になった子は
風が知っているか
毎日大きくなる葉の重なりの奥に
渦まいている小さな風の城
その中に迷い込んで
出口がわからなくなっているのではないか
小さな小さなからだになって
五月に行方不明になった子を
どうしたら連れ戻せるか
五月の向こうはただ風ばかり
ばらが首をかしげ
ジギタリスが笑いかけても
心臓は固い石になって縮む
五月に行方不明になった子が
佳いものをみんな持っていった
やわらかい皮膚
あたたかいからだ
敏捷なこころ
ひそやかな声
抱擁の幸せ
五月に行方不明になった子を
探してさ迷う
すべてを捨てて風の奥に
どうしたら入って行けるだろうか 
      ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””” 
五月は晴れやかな季節なのに、いつも何か大きなものとの別れと不安を感じる季節でもある。
五月の花、みずきの満開のときには、歓びと切なさが紙一重だ。やがて失う大きなものへの予感
におびえているように。      

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夜ひらくサボテンの花

先日サボテンの花について書きましたが、少し観察が足りませんでした。
今日二つ目の花がさいたのですが、なんとひらきはじめたのは昨夜の9時ころ。
半月の下で、10時ころには、もう先端が2センチくらいひらいていました。
一晩中見ているわけにもいかなくて、今朝早起きして、4時過ぎに見に行ったら
すでに満開。この花は夜中に咲くんですね。でも花の盛りは短くて、朝の6時には
もうつぼみはじめて、7時にはほとんど閉じてしまいました。この間の花は、朝に
なって、気が付いたので、2時間の寿命かと思ったのですが…、実は夜通し咲い
ていたんですね。
ペルーの自然の中で、この丈高いサボテンの群れの花盛りをみたらすてきだろうな
と思いました。向こうでは魔除けに庭に植えるとか、食べると幻覚作用があるといわ
れるのも、なるほどという雰囲気です。「魔」は夜のうちに近づいてきそうなので。
以上、間違いの訂正です。

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葉月のうた 佐藤真里子

                   葉月のうた
                                               佐藤真里子
    夏の野の茂みに咲ける姫百合の
    知らえぬ恋は苦しきものを
      万葉集(巻8・1500)大伴坂上娘女
   
    異界との境界が消える
    逢魔が時
    木陰に
    椅子とテーブルを出す
    微かな風が
    葉先をゆらす
    硝子の杯によく冷えた酒を満たし
    レタス、パプリカ、ラデッシュには
    オリーブ油と岩塩とバルサミコ酢を
    強く想えば願いは叶うもの
    飲んで
    もっと
    飲んでと
    
    
    影のわたしにもすすめ
    傾き濃さを増す陽の光が
    夏草をすり抜けて届く風が
    わたしをもゆらし
    「独りの酒はつまらないだろう」と
    とても遠くから耳元でつぶやく声
    草の海をかきわけてやって来る
    その声のひとと
    陽が沈む
    向こうへと
    泳いでゆこう
  ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
この詩は佐藤真里子さんが、《今と昔のうた暦》という企画で、青森の新聞に連載しておられる
シリーズの1篇です。 昔の有名な和歌を枕にして、そこから現代の詩を立ち上げるという試み
を、今の紙上で読むと、何かまた未知の風が立ち初めたようで、興味深いものを感じました。
うたと詩の背景の空間が互いにこだましあって、異次元の詩的ざわめきを深めるようです。
食事や料理のシーンをとりあつかうとき、佐藤さんの腕がとりわけ冴え、その味付けが他の
追随を許さないことが多いのですが、この詩でも、逢魔が時の木陰の会食に、知らず知らず
まぎれこみ、酔いしれそうな自分を感じました。たのしくて、やがてかなしい、行方の知れぬ
飲み会のアラカルト。この企画の続きが待たれます。  
    
 

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