草原の祝祭

町田純のヤンのシリーズは不思議な魅力をもつファンタジーだ。物語というよりは独白体で際限なく語られる夢みたいでもある。ヤンの絵がとてもいい。後足で立って歩く孤独な猫のヤン。その背中の表情の豊かさ…。その背中を吹く草原の風の響き…。
「この一瞬の刻(とき)を大切に…」と、ヤンは思っているらしい。そのような一瞬はなかなかやってこないのだから、いっそう大切にしなければ…と。
「草原の祝祭」のなかに、今日はこんな文を見つけた。
「結局楽しいことや愉快だったことの記憶は、ある程度の年月がたつと、すべて哀しみのガラス玉にとじ込められてしまって、思い出すごとに、一つ、二つ、三つと、大きな広口びんに入れられていくんだわ。そして、こういったたくさんのびんは、それがどこにしまわれたのか、誰も覚えていないの。
ところが、寂しさや哀しさの記憶は、清冽な川底に散らばる、さらさらした白っぽい長石や、透明な石英の粒子のように、ときどき高まる意識の流れに舞い上がったり、無意識の淀みに沈み込んだりしながら、少しずつ、気が遠くなるほどゆっくりに、生涯の最期の河口に向かって、流され、進んでゆくの。
だから、死ぬ前に蘇る全ての記憶は、哀しみの記憶なのよ」
「でも、こうやって最期の時まで磨かれた、寂しさや哀しみの記憶ほど美しいものは、これほど美しいものが、ほかにあるかしら!」
これは草原を走る汽車のなかである女性に語らせている言葉だ。
私も夢のなかでときどき、しまい忘れた小さなビンなどを見つけることがある。それは目覚める前に、また意識の彼方の闇へと運び去られてしまうのだが。あるときは、ビンのなかに小さな魚たちが泳いでいたり、あるときはその底にわずかな水だけが光っていたりする。あれは私の遠い歓びや楽しさの記憶の結晶でもあるのだろうか…。

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三千院

奈良で正倉院展を見た。2、3年ぶりかもしれない。秋晴れに恵まれた一日。博物館を出ると、ナンキンハゼ(通称?)の大木の紅葉と白い実が午後の陽に映えて、とても美しい。奈良公園にもその時間は人影が少なく、鹿に餌をやる旅の人がちらほらいるくらい…。しばらくベンチでのんびりする。
翌日は京博で「最澄と天台の国宝展」を見る。延暦寺の聖観音立像をはじめ何体ものすぐれた仏像にお目にかかれた。(私の好きな運慶作の円成寺大日如来の面差しに似た横蔵寺の大日如来なども。)その道のプロである連れにうるさく説明を求めつつ、昼前までかかって、ゆっくりと見る。相棒がそうであるからといっても、私は門前の小僧までもいかない知識なので、今回ははじめからその気になって、仏さんとじっくり相対した。最澄と空海についてももっと知ってみたくなる。書物でだけでなく具体的な作品と引き比べて見ると、面白みが増すのかもしれない。
午後は大原の三千院まで行って、紅葉の走りに触れた。けれど一番印象的だったのは、国宝の往生極楽院(阿弥陀堂)の御堂だった。もちろん阿弥陀三尊はすばらしかった。が、その御堂内部の船底天井や垂木が群青などの美しい極彩色の花園の図で彩られていることが、去年の赤外線による調査で判明し、その一部残された部分を照らして見せていただけたのがなにより印象的だった!まるで感じが違うのでびっくりする。来年は御堂を別の場所に復元模造して公開する由。
その頃の人々はこのようにも華やかで色彩溢れる極楽浄土を夢見て、阿弥陀様に導かれて成仏するイメージを抱いていたのだなあ…と。いま私たちのみるその頃の仏像の多くが、このようにも金ぴかであったり、極彩色であったりしたのだから、なんという美意識の差だろう。日本的といわれる,ワビ、サビの感覚について、あらためて考え直してしまった。
それにしても、三千院の境内は丈高い木立のなかの空気がひときわ澄んで、すがすがしい。
今回は、短いがよい旅をした。何年ぶりかで、京都に住む旧友?のKさんと電話で話し、近い再会を約したことも嬉しいことの一つだった。

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能面展を見る

銀座のポーラミュージアムアネックスで、能面展を見る。亡き兄の松本高校時代の友人石関一夫さん製作の増女、乙御前をはじめに見る。乙御前のひょうきんさに笑い、増女の風格に細部まで瞳を凝らす。さらにギャラリーに並ぶ能面たちのかもし出す静謐さと、意外なユーモアをもたのしむ。一緒だった唐澤秀子さんと、悲しみや怨念などのマイナスの情念を表す面(たとえば泥眼など)の表情にはかえって訴える力の強さを感じるなどと話し合う。私は眉間にしわを寄せてこちらをひたとみつめる「増髪」の面にひきつけられたが、これも決して柔和な表情ではない。
その後ぶらぶら4丁目の方へ散歩して(唐澤さんも私も銀座は久しぶり)「蔵人」でランチをとり、その後「壱真」でコーヒーを飲んで夕方まで延々としゃべる。ファンタジーについて,彼女が子ども時代に熱中して読んだ「モンテクリスト伯」について、物語のおもしろさ、それから詩についての示唆的な話(人類創生のころの記憶にひそむさまざまの種のイメージを喚起する詩のこと)、ヨーロッパ文化とキリスト教が現代にもたらしたもののこと、彼女の入った合唱団のこと、いつかフランスのある地方のホテルにいっしょに行きたいという夢、女がものを書くには一人の時間、空間が必要ということ、ETC.。それから限りなくいろいろと…。私の詩集の編集者だった彼女に今回もまた活を入れられる。
久しぶりに友人と、仕事と関係なく、ただ純粋に話をする時間を過ごすことをした。そんな日はとても充実感があって、日ごろのこまかいしんどさも忘れてしまう。それにしても、ただ友人と話すというだけの時間をもつために出かけるということは、今は案外少ないかも知れない。何の目的もないこういう時間に対して、忙しい私たちは案外世知辛いのだろうか。

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童謡展

神奈川近代文学館の閲覧室に県内発行の雑誌などを展示しているところがあり、ペッパーランド30号を寄贈しに行く。丘の上にひろがる手入れのいい花壇やバラ園はのどかな日を浴び、あちこちに画架を立てて画を描いている人たちがいる。文学館ではいま「日本の童謡 白秋,八十…そしてまど・みちおと金子みすず展」という催しをやっていて、雑誌「赤い鳥」誕生にはじまる童謡の黄金時代をつくった神奈川ゆかりの詩人たちを中心に、その周辺の人々…野口雨情、山田耕筰、成田為三やその他の人々も紹介されている。童謡の「兎のダンス」のレコードを見つけ、子どもの頃親が買ってきてくれたことを思い出したりして懐かしい気持ちになる。
絵本や本の装丁にしても、色調にしても、決して今では出せないものがあって、私たちは知らない間にとんでもない時間のクレバスを超えて来てしまったのだと思う。
静かな喫茶室でカップにたっぷり入った熱いコーヒーを味わってから、もう傾きかけた午後の陽の中のバラ園を通りすがりに眺める。谷戸坂を下りて元町を抜けて帰るまで、今日はめったにない小春日和の一日だった。
歩きながら(童謡というのは子どものための歌といわれているけれども、あれは表現の一つのジャンルで、もっと分化し、もっと個性化していける詩的表現なのでは)と思った。マザーグースの訳では、白秋の訳が今でも好きだ。現代人?が訳すとあのような詩的な妖しさが消えてしまうように思う。パソコンの時代には生まれない、原稿用紙の上に一字ずつ書いていく時間のなかで、はじめて生まれてくる訳ではないか、などと思う。言葉がキツネのように軽やかに化けていて、その裏側に見えないしっぽを隠している気配。それもたのしい身振りで。

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高橋たか子の「日記」

「一人の人の存在的エネルギーの量とか強さが西洋人にくらべて少ないのではないか。その量とか強さを、一つにまとめて、人は他人と向き合うべきなのに、この一つにまとめる術が日本では文化的に欠けている。一つにまとめることで、その人というものが在り、また、そのことが他人への礼節にもつながる。こうした自分を相手にさし向ける、かつ、相手をよくみつめている、ということが、日本人には欠けている。」
これは高橋たか子の「日記」を読んでいて、いま心に引っかかっている言葉の一つだ。
さらに続けて「この強力な内在の力で、とことん学問をしたり政治を行ったり…西洋人がすぐれているのは、この一方向への徹底性であろう。一方向といっても、前述したように、出会う他人たちをよくみつめているので、複合的な一方向である。」「ロマンといわれる長編小説が日本で発達しなかったことも、右の事柄と関係がある」とも。

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詩ひとつ

                     風景                前田ちよ子             
             僕等はこれから生まれるのか
             それとも死んだあとなのか
             僕等のいるこの闇が
             何なのかわからない
             
             さくらのはなの散る下で
             僕等は輪になって座り
             うすいももいろをしているはなびらを
             たぐり寄せては
             細い針と細い糸で綴り
             僕等の知らない
             あるいは忘れてしまった母のための
             厚い花輪を作り続ける
             
             切れ切れに はるか遠く
             僕等を呼ぶ声が聞こえたような気がして
             手を止め 眼をこらし
             耳を傾けたあと
             一層緻密になる闇
             
             ひざの上に積み上がって来る
             はなびらの重い綴りを繰り
             積み上がれば繰り
             
             積み上がれば繰り…
             僕等はこの繰り返す作業に埋没し
             やがて さくらのはなびらの散る音も
             あの声も…
             僕等には聞こえなくなる
これは「ペッパーランド」の創刊同人だった前田ちよ子さんの作品。今は詩をかくことから離れているけれど、彼女の詩には、時空を超えた生への神話的想像力が感じられて、読むたびに心惹かれるものがあった。その詩に触れるたびに、しんとした気持ちにさせられた。
「前田さん、また作品を読ませて欲しいよ!」 
この声がいつか彼女の耳に届くように!
                    
             
                 

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軽井沢

この間の塩壷温泉への旅が尾をひいて、また突然軽井沢を訪ねた。
前夜までの雨が急に上がって、青い空に紅葉の木々の姿が映える好天だった。
ところで軽井沢はこんなに猿が多かったのか…と驚いたのだが、散歩中にも突如猿たちが奇声を上げて喧嘩を始めたり、ホテルの庭で親猿,子猿が10匹以上も戯れていたり、木々をかけのぼったり、枝でブランコをはじめたり…と、近くにいる人間のことなど目にもくれない様子。今は木の実がたくさん生っているので、さぞや大御馳走なのだろう。その遊びの様子は見ていて飽きない。
シーズンをいささかはずれているせいか、ホテルの近辺は静かで、頬に冷たい風もまだ心地よい。雲場の池は紅葉にはまだ少し早めで,鴨たちがのんびり泳いでいる。リンドウもまだ少し咲き残っている。
旧軽井沢に出て重文の旧三笠ホテルを見学した。建築からちょうど今年で100年。歴史的な由緒のある建築は、なんだか物語の中にでも出てくるような雰囲気だ。犀星や立原道造や堀辰雄、そして中村真一郎などの若き日の写真や資料の展示された一室もあって、古色蒼然とした建物の隅ずみから、彼らの語らいの声が聞こえそうだ。ここは軽井沢の鹿鳴館のような存在だったという。
純西洋式木造ホテルとしてホテルはいま重要文化財となり、澄んだ秋の日差しのなかにぽつんと置かれている。まるで童話のなかの一シーンみたいな雰囲気さえ持っている。それは、たとえば廃屋とか、滅びつつあるものの静かな気配にもみちていて、夕日のなかに刻まれた懐かしい記憶みたいでもあった。
歩きつかれて、昼食は川上庵の天ざるにした。

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RIVERDANCE

ケルトの文化や、アイルランドの音楽に以前から興味があった私にとって、リヴァーダンスの舞台はすばらしい魅力だった。アイリッシュダンス、タップダンス、フラメンコ…そしてイリアンパイプ、フィドル、サクソフォン、バリトン、合唱など、目と心を奪う演技の数々、人類の長い歴史を語るダイナミックで情念に満ちた叙事詩だった。なんといっても、あのすばらしい群舞をまた見たいと思った。

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ヴィオラ・リサイタル

ユーリー・バシュメットのヴィオラ・リサイタルを聴きに県立音楽堂へ行った。木のホールとして音響効果のよさで有名なこのホールが家から近いのはとても有難いことだ。バシュメットの演奏は二回目だが、今日の曲目はバッハの無伴奏チェロ組曲1番、シューベルトのアルペジオーネ・ソナタ(ピアノはミハイル・ムンチャン)、ブラームスの弦楽五重奏曲ロ短調などだった。バッハの最初の音が鳴ったとたん、いきなり胸の奥にまで響いてきてどきどきした。こんな風に胸に直接響く音ってなかなかない…。シューベルトは、そしてもちろんアルペジオーネは私のとても好きな曲だが、今日はバッハの方が印象に残っている。
私の詩集の訳をしてくれているアメリカ人のクランストンさんに好きな音楽をきいたら、自分の好きな音楽をいろいろ挙げてから、シューベルトも好きだといい、そういう自分をロマンチストだと記していた。そういうものなのだろうか。私はシューベルトの旋律に秘められた憂いのある甘さにも惹かれるのだ。そういえば
「あなたはどんな音楽が好きなのか」という質問は、私がときどき親しい人に投げかける問いの一つだ。
そのほかに、あなたは動物が好きですか?とか、どんな本を読むの?とか。あなたの一番お気に入りの時間は?とか。
脱線してしまったが、いい音に出会えた今日という日は、やはりいい一日だったと思う。
ちなみに舞台のバシュメットは黒づくめの簡素な衣装で淡々と演奏した。彼は1953年ウクライナ生まれの人。78年ミュンヘン・コンクールで優勝。その後国際的に活躍の場をひろげ、ベルリン・フィル、ロンドン交響楽団などとも共演し、「疑いもなく、現在、世界でもっとも偉大な音楽家の一人」とロンドンタイムズは評価している。(これはパンフレットにいわく…です)
思うに「偉大な人物」というのは静けさをどこか一点、内部に秘めている人ではないだろうか。
彼の演奏を聴きながら、つい先日読んだばかりの「ペンギンの憂鬱」のことを思った。あの著者アンドレイ・クルコフもウクライナの作家だった。

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帰り道で

秋の夕暮れはみじかいけれど、暮れかけたそんな街で何かに出会うこともある。今日は石川町駅からすぐのギャラリーで、詩と版画による「二人展」というのを見つけて、ふと立ち寄った。毎週いろんな個展が開かれているが、詩画展というのは少ない。特にこの二人展では詩と画の端正な調和が魅力的だった。音楽的な諧調をもつ短詩は山中孝子さん、あかるく透明な色彩の版画は工藤正枝さん。(山中さんは鎌倉での宮沢賢治の会にも出ておられるとか…。)帰るときに、96年の関内駅近くのギャラリーワーズでひらかれたという「二人展」の作品集をプレゼントされた。帰ってからページをめくると、やはりそこにも画と詩の響きあう澄んだ空間があって、一人の秋の夜の時間を満たしてくれる。お二人の気負いのない姿勢と、個展のすがすがしい雰囲気とに、思いがけない贈り物をもらった気がする。秋の一日、帰り道がくれた小さな幸せ…。

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