近藤久也詩集「伝言」より

近藤久也さんの詩集「伝言」を読んで、いい詩をみつけたので紹介してしまおう。このコトバのレンズは何を発見させてくれるのか。
                 生垣のある家
 
               ああまた
               生垣のある家に住みたいな
               地面に覚えたての字を指で書いたり
               蟻たちが死んだミミズを担いでいくのをみていると
               生垣の向こう側を見知らぬひとたちが
               意味の解らないことばかり喋りながら
               通り過ぎていく
               ウバメガシの隙間から
               ちらちらみえる足首は
               知ることもない不思議な生き物
               飼っているわけではないんだけど
               ウバメガシのジャングルで
               昼寝していた青大将の
               ぞっとするほど
               つめたい目
(この世界の秘密の一角を、こっそり透明な小さなレンズでのぞいたときのわくわく感。これはまさに子どもの目。それとも青大将の「つめたい目」かな。)
                  
                馬が朝
                川べりにやって来て
                首をのばして水を飲んでいる
                黒い馬
                白い馬
                茶の馬
                灰色の馬
                斑の馬
                次から次と
                朝霧の中
                何頭も何頭も
                誰かの使いのように
                みえないところから
                いそいそとおどり出てきて
                並んで水を飲んでいる
                後から来る馬が入れるくらい
                隙間をあけてやり
                一列に並んで飲んでいる
                川面に視えなくなるくらい遠くまで
                馬が映っている
                後から後から馬が
                やって来る
                ひとはいない
(これも映像的だが、ファンタジックでもあり、コメントのないのがいいなと思う。私は今朝、すごく大きな樹のてっぺんあたりに,ゾウが何頭か見え隠れする夢を見たけれど、なぜかそのことを思い出す。この詩集にはほかにもおもしろい詩がいっぱいある。)        
                    

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昨日も今日も夕方ごろから天気急変。
出るときは傘など不要だったのに、帰り道はざあざあ降り。
それがまた昨日も今日も、友人との食事やお茶の帰り道…。
二日続けての相合傘の道行にふとおかしくなる。
おかげで今日は、東の空にすばらしく大きな二重の虹を見た。
夕方の6時頃に。
虹を見るとなぜか嬉しくなるのです。

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バルラハ展

上野の芸術大学大学美術館で「エルンスト・バルラハ展」を見る。バルラハ(1870〜1938)はドイツ表現主義の作家。彫刻の分野での表現主義は、日本に紹介されるのが非常に遅れていたとのこと。
最初雑誌のグラビアで見て、ぜひ行きたいと思い、「プラド展」を見た後でここを訪れたのだが、私にはむしろこちらの方がずっと印象的だった。芸術的感動を言葉にするのは難しいとあらためて思ってしまう。
バルラハは生涯を通じて「人間」を追求しつづけ、木彫、ブロンズ、版画、戯曲などを制作し、その力強くきっぱりと美しいフォルムには、生命の重さと内向する生の哀しみが一体化している。何回も会場へ引き返してゆっくりと見たいほどだった。だが時間がなかったので、後ろ髪を引かれながら、会場を後にしたのが心残りだ。
彼はナチから国家への非協力者として抑圧され、「頽廃芸術」の烙印を押されて、多くの作品が没収、廃棄され、失意のうちにその翌年死去したという。それがどんなに愚かな行為だったかを、これらの作品をみたあとで心底実感するばかり。なんて虚しい行為だろう。信じられない。
バルラハ展は5月28日まではこの会場で開かれています。

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アフターダークより

おもしろいコトバや、印象に残るコトバをときどき載せていこうと思う。
そのままにして忘れてしまうのはもったいないし、「言葉というレンズ」で違った風景を見てみたいので。
今日は村上春樹の「アフターダーク」のなかの文章から。
ラブホテル「アルファヴィル」で、ヒロインのマリと従業員のコオロギが話し合っている場面から。
以下はコオロギの言葉です。
「それで思うんやけどね、人間いうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙切れでしょ。火の方は「おお、これはカントや」とか「これは読売新聞の夕刊か」とか「ええおっぱいしとるな」とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」
「それでね、もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。どっかしみったれたところで、膝を抱えてのたれ死にしていたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼち引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生き続けていけるんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ。」
「そやから、マリちゃんもがんばって頭をひねって、いろんなことを思い出しなさい。……それがきっと大事な燃料になるから…以下略」
                             д        
(記憶というものに、生命力というものに、こんな角度から光を与えられて、なんとなく納得する。ニヒリズムというわけでもなく。私はときどきカラスの鳴き声をききながら、人間のやってることの無意味さをふと示唆されたりする。それとどこか共通するかもしれない。)

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ずれながら重なっていく時間

札幌の岩木誠一郎さんから絵葉書が届いた。(「愛虫たち」への私の便りへの返信として)。絵葉書は「支笏湖から望む残雪の樽前山」の風景だった。その写真を見てちょっと驚いた。もうかなり以前だが、ある夏の旅で支笏湖の近くに宿をとり、その翌日に出会ったそれは懐かしい風景だったので。その帰りに買ったクマのぬいぐるみを樽前山にちなんで「タルちゃん」と名づけたくらい、それは印象的な景色だった。そういえば岩木さんからは前にもサロベツ原野に咲く一面のエゾカンゾウの絵葉書をいただいたことがあり、カンゾウは私の特別好きな花なので、偶然の一致とはいえ嬉しくなって、これもいつも本棚に飾ってある。
岩木誠一郎さんの詩の移ろい行く微妙な時間の感触に、私はある懐かしさのこもった不思議な既視感を感じることがある。
                       出発
                明け方まで降りつづいた雨に
                洗い流された夢のつづきを
                歩きはじめているのだろうか
                いつもと同じ道を
                駅へと向かう足音も濡れて
                わずかにのぞく青空の
                痛みににも似た記憶のふるえ
                あふれてゆくもの
                こぼれてゆくもので
                街はしずかにしめっている
 
                このあたりで
                黒い犬を連れたひとと出会ったのは
                きのうのことだったろうか
                それとも先週のことか
                少しずつずれてゆく風景を
                何枚も重ね合わせて
                たどり着くことも
                通り過ぎることもできないまま
                わたしはわたしの居る場所から
                いつまでもはじまりつづけている
                
                ベルが鳴り
                自転車が追い越してゆく
                銀色の光がすべるように遠ざかり
                舗道の上に
                細いタイヤの跡だけが残る
この作品の2連目、(少しずつずれてゆく風景を/何枚も重ね合わせて/たどり着くことも/通り過ぎることもできないまま/わたしはわたしの居る場所から/いつまでもはじまりつづけている)という箇所がすっと心に入り込んでくる。自己同一的につながっていくようでありながら、実は少しずつずれてゆく、この時間という風景のグラデーション感覚は、とても現実的で共感できる。こうして人は流れてゆく時間の中から絶えずはじまりつづけてゆくのだと。そしてこのずれながら重なってゆく時間への敏感さこそが、自分の生に、独自の味わいと色合いを感じさせてくれるのではないか。(たどり着くことも、通り過ぎることもできないまま)人は日ごとに前へ生きつづける存在であるらしい。    

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ブログをごぶさたしていて、今日は久しぶりです。
このところの朝の楽しみは、NHKのBS放送月〜金朝7時半からの《毎日モーツアルト》を見ること。映像と年譜と音楽とでモーツアルトの年代記を追えるのが嬉しい。今は20台半ば位まできたが、(5月1日から一週間は初回からの5回分をリピートするそうです。今から見てもおそくはないというわけで。)彼も就職や失恋などで苦労ばかりしていたんだなあ…と思う。モーツアルトは子どものうちから年中旅ばかりをしていたらしいけれど、彼の(旅をしない人は哀れな人です。凡庸な才能の人間は旅をしまいとしようと常に凡庸なままですが、すぐれた才能の人は、いつも同じ場所にいれば駄目になります…)という言葉は印象的だ。たとえ凡庸であってもやっぱり旅はした方がいいと私は思うのだが。
それでというわけではないが、昨日,一昨日は京都と奈良をたずねた。京都で見た「大絵巻展」の《信貴山縁起》はとくにおもしろかった。僧命蓮(みょうれん)の呪文で、俵がたくさん列になって山を越え空を飛んでいくシーンなどアニメみたいで、その上物語もおもしろくて。また地獄草紙もすごかった。石臼で轢かれて粉々になる…舌は抜かれる…釜茹で、火あぶり…と。ユーモラスでもあるが、一種のおどしの文化のよう。もっとも別の形で今も私たちは始終おどされているし、似たような現象がはびこっているのでは。
そのほかにも鳥獣戯画や源氏物語絵巻など傑作のオンパレードだ。絵巻物は長編詩に似ていて、私にはちょっと参考になった。
翌日の奈良では大仏再建に尽くした僧、重源展を見て、春日大社神苑の万葉植物園を見た。みどりいろの桜の花を初めて見た。姫リンゴ、藤など新緑に映えて美しく、久しぶりに原稿から解放されて晴ればれした気分になる。
と、やっぱり凡庸な近況報告でした!

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ナショナル・ストーリー・プロジェクト

 原稿の合間を縫って毎晩寝る前の30分ばかり、佐藤真里子さんに拝借した『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』(ポール・オースター編、柴田元幸訳)を読んでいた。これはポール・オースターがラジオを通じて、「物語を求めている。物語は事実でなければならず、短くないといけないが、内容やスタイルに関しては何ら制限はない。私が何より惹かれるのは、世界とはこういうものだという私たちの予想をくつがえす物語であり、私たちの家族の歴史のなか、私たちの心や体、私たちの魂のなかで働いている神秘にして知りがたいさまざまな力を明かしてくれる逸話なのです」と、アメリカ各地の聴取者に呼びかけて、その結果集まった多くの経験談から選んだアンソロジーです。
 「私たちにはみな内なる人生がある。自分を世界の一部と感じつつ、世界から追放されていると感じてもいる。だれもが生の炎をたぎらせている。そして自分のなかにあるものを伝えるには言葉が要る」と編者はいう。
 この本には、ラジオからの呼びかけ後一年間のうちに送られた4千通の投稿の中から選んだ179の物語が入っている。投稿者は、あらゆる階層、あらゆる年齢、あらゆる職業に属し,住処は都市、郊外、田舎とまちまちであり、それは42州の範囲に及ぶ。これはアメリカ人ひとりひとりのプライベートな世界に属する物語でありながら、そこには逃れがたい歴史の爪あとがしっかりと示されている。…大恐慌、第二次大戦、そしてベトナム戦争の影響、アメリカ人の人種差別の病etcが刻みこまれている。
 以上はほとんどポール・オースターのまえがきからの抜粋だが、私も読み終えて、「世界はなんて複雑だ。怖くて、不思議で…不可解で。そして人間とは、なんと測り知れない深い存在だろう。そしてこの世には見えない力が働いているのでは…、などと考えた。世界とはこういうものだという、私たちの思い込みを覆す物語、とはよく言ったものだと思った。これは貴重な、ほんとうに興味深い本でした。個人の物語を通して世界を感じるという経験。貸してくださった佐藤さん、有難う!やっぱり私も買おうかな…と今思っているところです。とくに「死」「戦争」「愛」の項目など、忘れがたい話が多かったです。
                                                    

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枝垂桜

昨日はお花見日和だったし、原稿の締め切りを一つクリアしたので、思い切って桜に会いに出かけた。それも雑用をいろいろ片付けてから、午後遅めに家を出た。
入生田の長興山紹太寺の枝垂桜がすばらしいときいたので、小田原で箱根登山電車にのりかえ、夕方4時頃にやっと現場にたどり着いた。 なにしろ思いも寄らない急な坂道を20分ばかりも登って、やっとお目当ての桜に会えたのだ。
さすがに樹齢330年といわれる枝垂桜の大木はすばらしかった。風もなく、まだ花びらひとつ散っていない。まわりに群れる人々の姿も小さく見える。夕日に近い光のなかで荘厳といえるほどの美しさ…。
帰りは下り坂なので、地元の出店で、5個百円!というおいしそうなミカンや、「桜ご飯の素」など買って、ふたたび入生田の駅へ向う。ところが大発見。この駅のホームの線路ぎわに、ちょうど満開の枝垂桜が一本立っていて、私の気持ちはむしろその美しさに吸い込まれてしまった。
ホームの柵ごしに手が届く近さ、私の目の高さに咲き誇る満開のしだれ桜のピンク。今まで出会ったどんな桜よりも魅力的で、美しく、夢見心地になる。これは現実じゃない…夢の中だと、しきりに自分に言い聞かせて、目の奥に深くしまいこんで帰ってきた。来年はきっとまたこの入生田駅まで来たい。この一本の枝垂桜を見に…と思いながら。初々しい「桜姫」に一目ぼれした私でした!

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相沢正一郎さんの詩から

今度H氏賞を受けることになった相沢正一郎さんの作品紹介を、韓国の詩誌「詩評」に書くことになって、相沢さんの詩集4冊をずっと読み直していた。この4冊の詩集には一貫して、日常の暮らしの細部に注がれるこの詩人の繊細なまなざしが感じられ、それを媒介としての「記憶」と「時間」への深い問いがあり、さまざまな古今東西の読書体験がユニークな形で、詩の中に生かされていて、本好きの私にとってはまたその意味でも興味深い作品が多かった。それらの詩は概して長めの散文詩が多いので(以前も一篇ここに引用させていただいたが)、今日は行分けの詩で、彼のやわらかな感性を素直に感じさせてくれる作品を第一詩集から挙げてみたい。私の好きな作品です。
                 ☆         ☆         ☆                
                   
  わたしはおぼえている
  かつてわたしがいたところ
  いつかみたあおぞら
  あめにぬれたき
  のきのしたのくものす
  こげたパンのにおい
  ゆうがたのみずのにおい
  あしのしたのすなのもこもこ
  おふろばのタイルのツルツル
  どしゃぶりのあとのとりはだ
  くさきのこきゅう 
  きしゃのきてき
                    
  わたしはおぼえている
  いまあなたがいるところ
  ひをたいたり
  おちちをすったり
  かげふみをしたり
  ひややっこをたべたり
  たまねぎをきってなみだをながしたり
  おなべをひっくりかえしてひめいをあげたりしたところ
  おかのうえのかねはまだなりますか
  ろっこつのうきでたしろいいぬがかなしみのようにただよっていた
  あのかわはまだながれていますか
  うらにわのきにことしもまたイチジクがみのったでしょうか
  かっしゃがあかさびている あのいどのみずはまだかれていませんか
          詩集 『リチャード・ブローティガンの台所』(4)より   

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ゴヤ展その他

昨日は鎌倉へ出かけた。絹川早苗さんとペッパーランド31号の編集をすませ、その後八木幹夫さんも加わって、近代美術館別館へ、ゴヤの版画展を見に行った。初めて上野でゴヤの黒い絵(レプリカだが)と、この版画シリーズを見たときの衝撃は大きかった。その後京都まで版画展の追っかけをやり、それからさらに10数年たって、やっとプラド美術館まで到着して、本物の黒い絵(わが子を食うサテュロス・砂に埋もれる犬、など)を見たときの感動と畏怖は忘れられない。
昨日の版画展の「戦争の惨禍」はあの頃より、今見た方がいっそう現実味があって、「こんな写真があったら発禁ものかも」とつぶやいた。ここまで人間の残忍と悲惨を痛烈にえぐり出し、風刺したゴヤという人の生き方をもう一度見極めたくなる。この一月に徳島の「大塚美術館」へ行ったのも、一つの目的はゴヤの「黒い絵」を見たいからだった。そしてこれもまた見事なレプリカにしばらく立ち尽くしたのだった。けれども本音を言えば、その迫力を受け止めるには相当タフな体力が必要だとさえ感じた。そのくらい凄かった。
人間の内に潜む悪を、ここまでたじろがずに描ききったゴヤの精神の背後には、宗教的な支柱があるに違いない、そこにも日本的な精神風土からはうかがい知れないものがあるのだろう、などと思いながら、三人で八幡宮の大銀杏の下を抜け、小町通を散策して、駅近くの秋本という和風の店で懐石風の飲み会。おいしいお酒と、おいしい魚と、愉しい話の飲み会であった。ゴヤのことは話さなかった。そして詩の話をかなりした。

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