チリの夕べ

久しぶりのエントリーです。今日は9月9日の《チリの夕べ》についてのご報告です。まとめるのが下手なので、次にその日のチラシの文を引用します。
            もうひとつの「9・11」を思う初秋の夕べ
            ーチリの「絵と詩と歌と本」に寄せてー

 「テロルの9月」……この悲劇はアメリカ〈米国)の独占物ではない。
 1973年9月11日、南米チリで軍事クーデターが起こった。1970年以来、3年間続いてきた、サルバドル・アジェンデを首班とする社会主義政権が倒されたのだ。首謀者はピノチェト将軍である.その凶暴さにおいて、ラテンアメリカでも類を見ない「治世」が始まった。虐殺,行方不明、拷問、レイプ、亡命……
数十万のチリ民衆が、それぞれの運命を強いられた。
 軍事クーデターと、その後の軍政を背後で支えたのは、もちろん、アメリカだった。その意味でも、この国には、「テロルの悲劇」を独り占めにする資格は、ない。
 チリ・クーデターから33年目の秋の一夜、たくさんの「9・11」を想い起こそう。
 このような人為的な悲劇のない世界は、どのように可能なのかを考えよう。
 チリについて、チリ(についての)「絵と詩と歌と本」です。
プログラム
お話「世界は、たくさんの『9・11』に満ちている」……太田昌国〈現代企画室)
「チリへの思い」富山妙子〈画家、火種工房)
「アリエル・ドルフマン著『ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判』を訳して」……宮下嶺夫
朗読「ビオレッタ・パラ著『人生よ、ありがとう』の一節から……水野るり子〈パラ詩集の翻訳者)
チリの歌手、ビオレッタ・パラ、ビクトル・ハラの歌を聴きます
チリの詩人、パブロ・ネルーダとガブリエラ・ミストラルに捧げて描いた、富山妙子のリトグラフを観て
いただきます。以上。
            
                ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     
  私はビオレッタパラの訳詩集からデシマ(十行詩)をいくつかと、彼女の歌「人生よ、ありがとう」の詩を朗読した。会は現代企画室の太田昌国さんたちの企画によって進行し、休憩時間にはチリのワインや手作りのおつまみなどがサービスされ、正面の壁際には富山妙子さんのパブロ・ネルーダに捧げられた版画が並べられ、りんどうの花々が置かれていた。
 会の内容は現代というこの出口を見失った暗い時代への批判と呼びかけに満ちた真摯なメッセージであった。そして会の雰囲気は和やかで親しみに溢れたものだった。富山さんの情熱溢れるスピーチは胸を打つものだった。特にこのような社会への抵抗運動やアピールの源には文学、美術、音楽などの芸術の力こそが必要なのだというその主張は、胸に刻まれている。
今日は9・11から5年目ということで、あのタワー崩壊の現場再現ドラマをTVで放送している。複雑な気持ちで見ている。アメリカでもその後のブッシュのテロ対策について、懐疑と批判が一般の市民から起こりはじめているという。

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小長谷さんの詩集『わが友、泥ん人』より

小長谷清実さんの詩集『わが友,泥ん人』を読む。感じのいい詩がいくつもあって、暑苦しい日々の現実…いや暑苦しい自己のフレームからしばらく解放された。コトバを発することと、周囲の具体的世界が共呼吸していて、ああ、無理がないなあ…と感じさせる。ほんとうは気配というものに、こんなに耳を立てている生き方ってすごいことなのだけど。
                  
                       震えとして
                   
                   天井の裏側を這うようにして
                   少しずつ移動していく何かがあって
                   
                   壁の内側でひっそりと
                   身を捩っている何かがあって
                   
                   部屋の外の階段を目立たぬように
                   ずり落ちていく何かがあって
                   そうした何かに絶えず
                   気を配って
                   もう一匹の
                   何かとして
                   時にふと思い立って 周りの気配を
                   鉛筆で紙の上にメモしたり
                   メモの上にメモを重ねて
                   判読しがたいメモとしてしまったり
                   そうした日々を怪しんでみたり
                   毎日のことだ 怪しむに足りぬと思ったり
                   かくして 表現力のまことに乏しい
                   メモのアーカイブスを
                   ひらひらの一片の紙の上に
                   写し取っているのだ たった今
                   あるいは世界とやらに共鳴するやも知れぬ
                   もう一匹の震えとして 
                        空の破れめ 
                   空に散らばる
                   冷蔵庫 テーブルや椅子 洗濯機
                   書物 枕 電子レンジなど
                   それぞれが
                   傾いたり 寝そべったり
                   ときに倒立したりして
                   散らばり
                   浮遊し 漂ってい
                   その
                   とりとめなさは
                   なんだか
                   わたしの住む世界みたい、
                   わたしの
                   こころの在りようみたい、
                   顔みたい、
                   はらわたみたい、
                   影みたい、
                   来し方かたる
                   経歴みたい、
                   空には深さも
                   奥行きも
                   あまつさえ 理解しがたい
                   破れめもあって
                   あっちにこっちに
                   散らばっている薬壜 パソコン装置
                   テレビ装置 掃除機やシャツなど
                   受話器 ベッド 招き猫など
                   遺失物など
                   それぞれが揺らぎ
                   震え 微かにケイレンし続けていて
                   小さく見えたり 中ぐらいに見えたり
                   まるでわたしの
                   夢みたい、
                   生のステップみたい、
                   足跡みたい、
                   その痕跡の
                   詩であるみたい、
                   ウソみたい、
                   卑小さをうつす鏡みたいな
                   そして 茫漠としたドームみたいな
                   時空に向けて
                   わたしに似た男がコトバを発している
                   やみくもに放っている
                   たとえば「行く!」
                   あるいは「黙る!」
                   たとえば「食う!」
                   あるいは「聴く!」
                   たとえば「眠る!」
                   あるいは「笑う!」
                   けれどもコトバはことごとく
                   それぞれの語尾を震わせ
                   語幹を揺さぶり意味を捩じらせ
                   多層化しアイマイ化し
                   時空のなかに その破れめに
                   吸い込まれて行く、
                   小刻みに、
                   ことごとく、ぜんぶ、
                   朝が来て夜が来て
                   輝く闇が 翳る光が
                   互いが互いを
                   責め合うように     
                   かつ補完するように
                   くんずほぐれつ、
                   セクシュアルな呼気吸気で
                   空を充たしていく、
                   空をネットワークしていく、
                   その破れめを繕っていく
   
こんな風に詩の行為を続けていけたらいいなあ、と思う、そんな読み方をした。          
                     
                              

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山口への旅

8月19日から21日にかけて、11月の国民文化祭のための詩の選考を頼まれ、山口を訪れた。新幹線で4時間半かかる。おかげで行きと帰りにそれぞれ一冊ずつ新書版の本を読んでしまった。
山口市は私には初めての地でもあり、選考会の件もあり、やや緊張していたが、いまはなんとか無事に終えてほっとしている。それにしても作品を選ぶということは難しいことだ。選者個人の感性の幅の限界や、個性の差などをいやでも実感する羽目になる。高校生・一般の部では経験という素材の迫力と、詩としての完成度との間で悩むことになったり、小学生の部でもその年齢と作品内容のアンバランスなどということも考えざるを得ないケースも出てくる。
私は、他の選者の方々の作品に対する謙虚な姿勢に教えられることが多く、なかなかよい体験をしたと思っている。また詩という形でのみあらわせる経験を、こんなにも多くの人々が内面に抱えて一生懸命に生きていることはすごいことだと思う。それをコトバにしなければ、意識しないままにことなく、一生を終えてゆくこともできるのだが。コトバにすることと、コトバにしないこととは、その人にとって、人生をまったく別のものにしてしまうともいえそうだ。
山口では中原中也記念館が印象的だった。モダンな建築で、いま「青山二郎と中原中也」という特別企画展を開催中だった。貴重な手紙や写真などの資料を展示していて、時間をかけてゆっくり見ることができる。生原稿の魅力に今更のようにひきつけられる。
今度の会合で出会った、徳山の小野静枝さんは、「らくだ」という女性詩人たちの同人誌をもう30年も出し続けておられる方だ。二人でゆっくり食事をしながら、女性詩のことなど話し合うことができたのは、今回の旅の大きな収穫でもあった。
3日目には横浜から合流した絹川さんと、瑠璃光寺や雪舟の庭、サビエル大聖堂などをタクシーを頼んで回ってもらった。その日も、山口の空は青く、入道雲がわきたち、クマゼミが鳴き、ぎらぎらの真夏の一日だった。真っ青な空と雲を背景にした瑠璃光寺の五重塔のうつくしさや、うっそうとした木々の緑を吹き抜けてくる風の音が心地よかった。

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わすれられないおくりもの

このところなんだかんだと仕事に追われていて、ブログにもご無沙汰してしまった。
八月はこの国では死者たちを思い出す月かもしれない。戦争による死者たちばかりでなく…。八月はもうひとつの国との境目に近いこの国の季節なのだろうか。
私には子どもがいないけれども、自身が以前から絵本好きで、30代のころからあれこれ絵本を集めて楽しんでいた。特に史上に残る名作ばかりでなく、大人である自分の心にも(といってもかなり子どもじみた心!)、折々の風のように何かいい香りを運んできてくれた絵本のことを書いて見たいと思う。
今日は八月にちなんで、(スーザン・バーレイさく え)「わすれられないおくりもの」のことを…。
これは年老いたアナグマの死についてのお話です。
 
「アナグマはかしこくて、いつもみんなのたよりにされています。こまっている友だちは、だれでも、きっと助けてあげるのです。それにたいへん年をとっていて、知らないことはないというぐらい、もの知りでした。アナグマは自分の年だと、死ぬのが、そう遠くはないということも,知っていました。」
と、始まるこのお話。ひとり暮らしのアナグマは、ある日家に帰って,お月様におやすみをいって、夕ご飯のあと、暖炉のそばで手紙を書いてから、ゆり椅子の上で眠りにつく。そしてあの世への旅に出かけるのだ。その翌朝、「長いトンネルの むこうに行くよ さようなら アナグマより」という手紙が森の友だちに残されている。モグラも、キツネも、カエルも、ウサギの奥さんも、みんなみんな悲しくて悲しくて泣くばかり…。雪が地上をすっかりおおいかくして、長い冬に入っても、雪は心のなかの悲しみをおおいかくしてはくれない。みんな途方にくれてしまう。春が来て外に出られるようになると、みんな互いに行き来しては、アナグマの思い出を語り合うのだった。けれど……話しているうちに、やがてだれもが、アナグマからもらったちいさなおくりものに気がつくのだった。みんなにとって、それぞれが生きていく上で、たからものとなるようなちえや工夫を残してくれたことに気がつく。
「さいごの雪がきえたころ、アナグマが残してくれたもののゆたかさで、みんなの悲しみも、きえていました。アナグマのはなしが出るたびに、だれかがいつも,楽しい思い出を,話すことができるように,なったのです。」
毛布をぐっしょりぬらすほど泣いていたモグラが、あるあたたかい春の日に、丘にのぼり「ありがとう、アナグマさん。」と呼びかけたとき、モグラは、なんだか、そばでアナグマが、聞いてくれるような気がしたのだ。
草原の丘に立ってモグラが空に呼びかけている最後のシーンがすてきだ。思い出の中でみんなの心を楽しくしてくれる贈り物を、死者たちのだれもが残してくれているのだろう。そのことに気がつくのは生者たちの心だけ。ところで森の仲間たちのひとりひとりにアナグマはどんな贈り物を残したのか。まだ読んでいない人は、いつか読んでみては。
ところで私も年とともに、あの世に旅立つ知人や友人が多くなる。でも彼らのことを思い出すときは、いつも彼らは生き生きとした現在になって帰ってくる。たとえ何十年たっても。「青い鳥」のなかでメーテルリンクが言っているように、思い出すたびに死者たちは生きてここへやってきてくれるのかもしれない。そして彼らが残してくれた贈り物の多くが、私にとっても生きていく支えになってくれているのを感じる。その贈り物とは、たとえば「有難う、嬉しかった」とか、ある状況でうたってくれた歌の一節とか、単純な行為やひとつのコトバであることが多い。それは手触りのある贈り物のように、一つのシーンとともに、私の記憶に刻み付けられ、生きている時間をどこかで支えてくれている気がする。

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アパップのモーツアルト

先日紀尾井ホールにモーツアルトの曲を聴きにいく。クラリネット協奏曲とヴァイオリン協奏曲三番がメインのコンサートだった。クラリネットの演奏では、特に第二楽章のピアニッシモの音色の繊細な美しさに引き込まれうっとりしてしまった。
ヴァイオリン演奏はジル・アパップ(Gilles Apap)。1963年アルジェリア生まれのフランス人。今はカリフォルニア在住とのこと。即興の妙技と演出満載の演奏で人を驚かせるといわれるが、ほんとうにダイナミックな舞台演出には驚く。特に第三楽章のカデンツァは型破りで、口笛とうたで入り…つづいてコサックのダンス曲みたいなたのしげなメロディーやリズムが飛び出し、次々と変化しながら、延々10分以上もとどまるところを知らない。初めは唖然、次に俄然たのしくなり客席はみな固唾を呑んで聴き入るばかり。演奏スタイルも変わっていて、楽団の背後はもちろん、その間を通り抜け、一人ずつに目配せ?しているような感じ。
もちろん演奏はすばらしく、その華やかなきらめきのある響きは心を吸い寄せる。バイオリン協奏曲三番は私の一番好きな曲だが、このような音色で聴いたのははじめてかもしれない。きっと彼は音楽の精を自分のなかに住まわせているのだ。音楽のせまいジャンルの枠をこえ、さまざまな民族や風土を横断して風のように行き来できる自在な音楽への精神を育てているひとなのだ。モーツアルトもこれをどこかで聴いて大喜びしているだろうなあ…などと思った。

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国民文化祭

今年度の国民文化祭〈山口市主催)の現代詩部門の選考をすることになり、今日、山口から詩の原稿がどさっと届いた。これからたくさんの作品を読んでいくわけだけれど、とりあえず今日は小学校の部にざっと目を通した。大変だけど、読んでいくうちに、元気が出てくる。子どもたちの飛び跳ねるような生命感が伝わってくるのだ。それに子どもたちがどんなに家族の人間関係を軸にして生きているか、ひとりひとりの家族を、どんなにクローズアップさせて見つめているかが感じられて、なんだか嬉しくもなる。
逆に言えば家族というものが子どもたちに対してもつ意味が、一切の理屈ぬきに分かってしまった感じでもある。妹、弟、おばあちゃん、おじいちゃん、お父さん、お母さんたちが、それぞれの顔で、親しく登場しては、詩のテーマとなっている。これから中学生、さらに高校生と一般の部まで300篇近い作品を読むことになるけれど、それは私にとって、とてもすてきな体験をもらうことになりそうだ。
また書きたい、このことについて。

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To a Lost Whale

先日ハーバード大のCranstonさんからメールが入り、来学期のゼミで私の書いたクジラの詩を紹介したいとのこと。クランストンさんとは、10数年前に、私がケンブリッヂにしばらく滞在していた頃にお目にかかったのだが、それ以来ずっと私の詩の訳をしてくださっている。彼は日本文学〈和歌の翻訳と研究が中心)の教授であり、詩人である。「A Waka Anthology 1」によって日米友好基金日本文学翻訳賞を受賞している。
この詩は漂着死したクジラのイメージからのもので、1990年発表。いまさらちょっと恥ずかしいが、詩集には入れていないので,これを機会に訳詩と並べて紹介したい。
           
               To a Lost Whale 喪われたクジラへ                                               by Mizuno Ruriko
( translated by Edwin A .Cranston)

Sometimes I wonder
Aren’t you out there even now
floating your sick body on the waves
pouring out your life
in a song of love
sung on and on?

 
 ときどき私は思う
 あなたは 今でもまだ
 病んだからだを 波に乗せ
 けんめいに 愛の歌を
 うたいつづけているのではないかと
O whale —
what crippled your sense of direction?
For all the world as if you feared to drown   taht day
you fled the sea toward us
(and I –it was then I met you……)
 
 
 クジラよ
 あなたの方向感覚を狂わせたのは何?
 まるで溺死を怖れるかのように あの日
 あなたは海を逃れてやってきた
    (そして私はあなたと出会った……)

I love you
Enameled as you were with stardust of the sea
with barnacles and shells
you fell away alone
enormous from the dark
I love the bigness that is you
Listen −− when I pressed my ear to your wet skin
I felt for the first time — oh, yes —
with my own touch
the briny beating of the universe
between the dazzle of the sky and sand

 
私はあなたが好きだ
 海の星屑の 貝やフジツボにいろどられて
 闇からはぐれおちてきた
 あなたという大きさが好きだ
 ぬれたあなたの肌に耳を押しあてて 私ははじめて
 塩からい宇宙の鼓動に触れたのだもの
 まぶしい空と砂のあいだで
(Maybe, eons ago, I shared with you, aquatic ape that I was,
the frothy atmospehre of milk churned up by blustering storms.
Foster brother and sister, perhaps we fed at the same breast.
A fragment of green forest sunken in your brain, the shadow
of a waving polyp etched in gray on my retina…….But our lives
have been classified , and in the end our souls no doubt will
vanish like two separate drops of blood drying on the sand.
Without ever combining into one.)

  
  ( もしかして水生のサルである私は吹きすさ
    ぶ風に攪拌されて泡立った大気のミルクを太
    古のあなたと分けあったのだ 乳兄妹として。
    あなたの脳髄のすみには緑の森が沈んでいて
    私の網膜には灰色の珊瑚虫の影がゆれている。
    でも私たちの命は分類されて やがて魂は砂の
    上の二滴の血のように蒸発するのだろう。
    決して融合することのないままに。)
Yet the day will come
O whale
when between our two bleached skulls
sea spume driven by the wind
will blow again
and then we shall return
you and I to the one song sung
on this great earth


O whale far away

 
けれどクジラよ  いつか
 白くさらされた二つの頭骨の間を
 あの風のしぶきがまた吹きぬけていくとき
 私たちはこの大地の上で
 ただ一つの歌にもどれるだろうね
 遠いクジラよ
                     
 
                     

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ヘイデン・カルース(�)

カルースの作品には動物がたくさん出てくる。アビ〈鳥)の詩を読んだ。最後の連のアビの鳴き声の描写の強烈さ。いまの私にはこわいほど共感できる。私はカラスの声にいまそれを感じている。
                      フォレスター湖のアビ
                   
                 夏の原野……青みがかった光が
                 木や水にきらめいている。しかしその原野も
                 いまは消滅しかけているのだ。「おや?
                 あれはなんの鳴き声だろう」。すると
                 あの狂気の歌、あの震える調べが
                 ランプのなかの魔法使いの声のように 聞こえてきた。
                 人生の遠い原野のなかから聞こえてきた。
                    
                 アビの声だった。そしてそのアビが
                 湖を泳いでいるではないか。岸辺にある
                 メス鳥の巣を見張り、
                 潜り、信じられないくらい長い時間
                 潜りつづけ、そしてだれも見ていない水面に
                 姿を現した。友人があるとき
                 子供のころの話をしてくれたが、
                 アビがボートのしたを潜りつづけて
                 静かな神秘的な水中の世界に
                 黒ぐろと力強い姿を見せ、それから
                 背後にふんわり
                 白い糞を発したという。「すばらしかったよ」
                 とかれは言った。
                 アビは
                 二度三度湖面の静寂を
                 破った。
                 鳴き声で……まさに名残の鳴き声で……
                 原野を
                 破った。その鳥の笑い声は
                 初めはすべての陽気さを超え、
                 それからすべての悲しみを超え、
                 最後にすべての理解を超え
                 このうえなく微かな震える永遠の嘆きとなって
                 消えていった。その声こそぼくには
                 真実で唯一の正気に思えた。
もう一つ別の詩の一部分を引用します。
            
                   
             ……この歳月は動物を消滅させる歳月だった。
             動物は去っていく……その毛皮も、そのきらきらした眼も、
              その声も
             去っていく。シカはけたたましいスノーモービルに追い立てられ
             ぴょんぴょん跳ねて、最後の生存のそとへ
             跳んで消える。タカは荒らされた巣のうえを
             二度三度旋回してから星の世界へ飛んでいく。
             ぼくはかれらと五十年いっしょに暮らしてきた。
             人類はかれらと五千万年いっしょに暮らしてきた。
             いまかれらは去っていく。もう去ってしまった、と言っていい。
             動物たちには人間を責める能力があるかどうかは知らない。
             しかし人間にサヨナラを言う気がないことは確かだ。
                                   「随想より」後半部分
以上の2篇は『兄弟よ、きみたちすべてを愛した』より抜粋。
 
               
                                      
         
                     
                      

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ヘイデン・カルースの詩

急に猛暑になってぐったり。夜、八木幹夫さんに拝借したヘイデン・カルース(1921年アメリカ・コネティカット州生れ)の詩集「雪と岩から、混沌から」(沢崎順之助訳)を読む。氷点下の厳しい寒さのつづくヴァーモント州北部の冬から生まれてきたというこれらの詩は、自然のただなかを生きる生活者のきびしい精神と張り詰めた美しさを感じさせ、この程度の熱帯夜にげんなりした私の気持ちを洗い直してくれた。鉱物のようなかっきりとした手触りをもつ彼の作品を紹介したい。まず一篇目を。
                            夜の雌牛
                      今夜の月は満杯の盃のようだった。
                      重たくて、暗くなるとすぐ
                      靄のなかに沈んだ。あとに
                      かすかな星が光り、道ばたの
                      ミルクウィードの銀色の葉が
                      車の前方に輝くだけだった。
                     
                      それでも夏のヴァーモントでは
                      夜のドライブがしたくなる。
                      山奥の闇のような靄のなか、
                      褐色の道路を走っていくと
                      まわりに農場が静かに広がる。
                      やがてヤナギの並木が途切れて、
                      そこに雌牛の群れが見えた。
                      いま思い出してもどきっとするが、
                      闇のなか間近で深々と呼吸していた。
                      車を停め、懐中電灯をつけて
                      牧場の柵まで行くと、雌牛は
                      寝そべったまま顔を向けた。
                      闇のなかで悲しい美しい顔をしていた。
                      数えると——四十頭ばかりが
                      牧場のあちこちにいて、いっせいに
                      
                      顔を向けた。それは遠い昔の
                      無垢だった娘たちのように
                      悲しくて、美しかった。そして
                      無垢だったから、悲しかった。
                      悲しかったから、美しかった。
                      ぼくは懐中電灯を消したが、
                      そこを離れる気はしなかった。
                      といってそこでなにをするのか
                      分からなかった。その大きな
                      闇のなかで、はたしてなにが、
                      ぼくになにが、分かっただろう。
                      柵に立ちつくすうちに、やがて
                      音もなく雨が降りはじめた。 
   
 
                       
                        

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一枚の絵の言葉

《政治的な作家、あるいは政治的な芸術家とは、作品中になにか政治的なことがらを登場させる作家ないし芸術家である……こういう平板な見方にはぼくはいつも逆らってきた。だったらたとえばゴッホの「ひまわり」の絵はどんな意義をもっていたかと自問してみればいい。平板な芸術観からすれば、あれは「社会的視点には関連しない」絵と言われるだろう。ひまわりの花以外、なにも描かれていないんだからね。だがしかし、ゴッホの「ひまわり」がヨーロッパで引き起こした意識変革の事実は、おそらくベトナム反戦プラカードの全部を集めたものより大きかったと思われる。一枚の絵によって広汎なひとびとの意識が変えられてしまうなんてことを、平板な頭脳の持ち主にはわかりっこない。ヴァン・ゴッホがもたらしたのは、見る力の新生だった。美とはなにかの新しい概念、そしてその帰結としての新しい意識内容、新しい意識フォルムを,ゴッホはもたらしたんだ。》
以上はミヒャエル・エンデの『ファンタジー/文化/政治』からの言葉だが、ずっと以前、対談集『オリーヴの森で語り合う』で出会ったときから強く印象に刻まれている。

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