文芸コンクール

 今年は、第37回神奈川新聞文芸コンクールの現代詩部門の選考をさせていただいた。今年は暑い夏だったが、さらに熱い多くの方々の表現への意欲となまの声に触れることができたのは新鮮な経験だった。もう紙上にも発表されたので、ここに第一席の入賞作を載せてみたいと思う。
                   ヒマワリ          
                                         志村正之

              朝の輝きで一杯に盛り上がっている海を
             
             両手ですくい挙げて顔を洗った。
              
              指の隙間から光の雫が
             バシャバシャと溢れ落ちていく。
              
                あの山のイノシシの鼻に
               大きな工場の煙突の中に
               僕が過ごした小学校の
               グランドに引いた白線の上に
               
               川から飛び出した岩の端っこに
               八百屋や魚屋や
               干からびた田んぼやみかん畑に
               
               小さな駅のレールの上に
               鉄屑の山に乗っかった
               ステレオの回転盤に
               新しく出来た
               道路とマンションのコンクリートに
             
             そして、昨日君が撒いた
               小さな花壇の
               ヒマワリの種の上にも。
          ※              ※
 この詩を読むと、生きてるってすてきなことだなあ…と全身に感じます。あたりがザワザワしてきます。習慣的に繰り返している平凡な行為やしぐさも、想像力を生かすと、とんでもない豊かな広がりと奥行きをもっているんだなあ…と。
読んで幸せになる作品でした。作者は陶芸家とのこと。いつも五感で直接モノに触れている方なんですね。  

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聴くということ(つづき)

 (こころのケアやカウンセリングにおいて、、慰めの言葉や助言よりも「こうなんですね」と(語るひとに)
繰り返して確認することが大きな意味をもつのは、おそらく、そういう語りののなかで、語るひと自身がみずからを整えるような「物語」を紡ぎ出していくことになるからである。)
 (語るひとは聴くひとを求めている。語ることで傷つくことがあろうとも、それでも自らを無防備なまま差し出そうとするのである。ケアにおいてそのリスクに応えうるのは、「関心をもたずにいられない」という聴く側のきもちであろう。)
 (とはいうものの、ほんとうに苦しいことについてひとは話しにくいものだ。…どのように語っても追いつかないという想いもあるだろう。だからそこから漏れてくる言葉は、ぷつっ、ぷつっと途切れている。だれに向けられるでもなく、ぽろっと零れるだけ.自分にとってもまだ言葉になっていないような言葉、ひとつひとつその感触を確かめながらでないと音にできない言葉だ。
 
 そういうかたちのなさに焦れて、聴くひとは聴きながらつい言葉を継ぎ足してしまう。ただ相手の言葉を受けとめるだけでなく「〜ということなんじゃないですか、だったら…」と解釈してしまう。こうして話す側のほうが、生まれかけた言葉を見失ってしまう。
 
じっくり聴くつもりが、じっさいには言葉を横取りしてしまうのだ。言葉が漏れてこないことに焦れて、待つことに耐えられなくなるのだ。
 
 ホスピタリティ、つまり歓待〈=他者を温かく迎えるということ)においては、聞き上手といった素質の問題ではなく、どのようにして他者に身を開いているかという、聴く者の態度や生き方が、つねに問われているようにおもう。)
                              
                              ※
 以上、思い当たることの多い内容ではないか。その人の身になって聴く…という態度は、自分をまず語ろうとすることとは対極にあるものだろう。折あらば相手の話のすきまを見つけて自分を語ろうとするのが、現代では一般的かもしれない。
 電話などでもこちらが話しているときに、それを無視して口を挟んで話をとったり、親切に?話を要約してくれようとするひともいて、それはたとえば混雑したデパートの売り場や地下道で、自分の行く手をつぎつぎと阻まれるストレスと似たものを与える。
 いま面している相手に自分を重ね、その心の動きに関心をもつ、かけがえのない共感能力は、著者もいうように「待つ」という心性に通じるものだろう。「待つ」ということは、ぼんやりした受身の姿勢でなく、集中力が求められるものだ。
 自然のなかの植物たちや、季節の大きな循環のなかで、「待つ」という態度を、訓練によって身につけなければならないのだ。電子機器にかこまれた、この都会の生活のなかで、息切れしかけている自分の呼吸を、もう一度静めるようにして。

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聴くということ

鷲田清一「まなざしの記憶」(だれかの傍らで)という著書には、胸を打つ言葉がたくさんある。
私は、日ごろ《きく》という行為を大切にしたいと思っているのだが、個々人のもつ感覚の差やその不思議について、またひとの話を聴くという行為について、印象的な部分を引用したい。
 (聴くといえば、だれもがおそらく、耳で、と答えるだろう。聴覚は鼓膜に伝わる空気の振動を聴覚神経が大脳に伝えて……と、むかし学校で習った記憶がある。しかし、聴くという行為が、耳でする、ただ単に音響情報を受け取るという受動的な行為だとはとても信じられない。
  たとえば、数名が同じ部屋にいてもおなじ音を聴いているとはかぎらない。…BGMを聴いている人もいれば、…ワープロのキーを打つ音に神経を集中している人や、…鳥の鳴き声に耳を澄ましている人もいる。後者の人たちにはBGMの音はほとんどきこえていない。…聴くというのは、こちら側からの選択行為でもあるのだ。
 ひとの話を聴くというのも、…じつは選択的な行為なのである。相手が親しい人なら、きちんとその言葉を受け止めていないと「ちゃんと聴いているの?」「聴く気はあるの?」と問い詰めてくる。)
(聴かれる方からすれば、相手が自分に関心があるかどうかは、その聴き方ですぐ分る。こちらの聴き方しだいで、愛されていると感じたり、じぶんのことなんかこのひとにとってはどうでもいいのだと感じたりする。正確に、そして繊細に。だからこそ会話においてはしばしば、語るほうが先に傷つくのである。聴くということが選択的行為である限り、…相手が伝えたいことをそっくりそのまま受け取るというのは、なかなか難しいものだ。そしてそこに自分が出る。何を聴くかというところに。)
(聴くというのは、相手の言葉をきちんと受けとめることである。理解できるかできないかは,ふつう思われているほど重要ではない。話すほうが「わかってもらえた」「言葉を受けとめてもらえた」と感じることが重要である。なぜなら、自分について話すことは、自分を無防備にすることだからだ。逆に言えば、何でも話せるということは、相手に自分が、いまのままで十分に、そして(もしあなたがこうしてくれるなら、といった)条件付でなくそのまま受け容れられていると感じることだからである。「わかってもらえる」というのは、苦しみを「分かち合ってもらえる」ということでもあるのだ。ちなみに西洋の言葉で、シンパシーというのは「苦しみを分かちもつ」という意味だ。)  ーつづくー                           

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キアゲハその後

9月7日頃に生まれたキアゲハの幼虫のその後です。
実は、なんとか五齢のアオムシまで育ったのだから、これでうまく羽化して8匹のキアゲハが見られると皮算用?をしていたのですが、そうはうまくいきませんでした。
かれら8匹はたちまちイタリアンパセリの鉢を丸坊主にして、それより大きい隣のプランターも食べつくしました。それから一匹が昨日の夜明けに大脱走。(蛹になるためです)。もう食草もなくなったので、残りの7匹を飼育箱に移して、買ってきたハーブ売り場のイタリアンパセリを入れてやったのですが、ほとんど拒食症。(食草にはとても敏感です。)もちろん少しは食べたものもいますが、こわいほど食べません。屋外のプランターと環境が一変したせいもあるのでしょうか。それとも買ってきたハーブが消毒されていたり?
(昨日友人の0さんが、キアゲハの窮状を知り、なんと、お庭の最後の一株のイタリアンパセリを土付きで、わざわざ宅急便で送ってくださり、これはすごく嬉しかったです。有難う!)
ただそれが届く直前に、今朝飼育箱のなかであえなく4匹が死亡しているのを発見。箱のなかを蛹化直前ではげしくあるきまわっていた2匹は、脱出できずあきらめたのか、天井近くに固着化。
それでも、やっと一匹だけ生きていた青虫君を、取り出して戸外のイタリアンパセリの苗の鉢にのせてやって、様子を見ていたところ、午後になりちょっと目を放した隙に、この子も脱走。いくら捜しても、もう後の祭りでした!ちゃっかりと物陰にかくれてうまく蛹化してくれるといいのですが!まあ、自立してやってもらう方が気は楽ですが…。
と、いうわけで、今のところ目の前で羽化を期待できるのは2匹だけ。脱走中が2匹。そして死亡が4匹、という結果。(もっとちっちゃいうちに死んだのは別として。)まあ統計上の200匹に1匹強の生存というデータに比べれば、約10匹のうち2匹はましにしても、チョウたちの生存条件は過酷です。こんな都会のなかのバルコニーでは。あーあ、今年はキアゲハの一夏という感じで、得難い経験をしました。というより、まだ経験中です。

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キアゲハ1ダース

 昨日7日、例のイタリアンパセリの鉢に、キアゲハの幼虫が孵化しているのを発見! これは9月1日にバルコニーに舞い戻り、自分の育った古巣の鉢に産卵した(と書いた)例のキアゲハの子どもたちだ。6日の深更からの関東直撃台風の通り過ぎたあと(7日の午後)に、鉢をのぞいたら、3ミリくらいのゴミみたいな茶色い虫がイタリアンパセリの茎のあちこちにくっついているではないか。嵐といっしょに生まれたんだ!と生命力の強さにびっくり。
 けれどまたこれからの食草の心配がつきまとう。どうやら1ダースはいるようだ。(そういえばあのときキアゲハは10回くらい産卵の行動をくりかえしていたっけ)。母親のサナギの殻がまだ残っている小さな鉢に1ダース!これはなんだかオモシロイ。
 これから脱皮を繰り返して、あの一人前の青虫にまで育つのが何匹いるか分らないが、すでに今朝見たら大きいのは5ミリくらい。でも小さいのは3ミリくらいとその差は大きい。せっかく里帰りして産み落とした子どもたち。せめて1匹や2匹は羽化まで育てばいいけれど…。なにしろ200匹に1匹の確率と知ってみると。

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キアゲハの帰郷?

今日、不思議なことがあった。午後ふと見るとバルコニーをひらひら舞う蝶の影。いそいでのぞくとこれがまた一匹のキアゲハなのだ。その蝶は、10日ほど前、キアゲハが羽化した、イタリアンパセリの鉢のまわりや、私ののぞいているすぐ前や、そのあたりのいろんな鉢の上をひらひらと舞いあるき、セージの花の蜜を吸ったりして、10分くらいもバルコニーから離れず、とうとう例のイタリアンパセリの鉢にとまって、まだわずかにのこっている葉のあちこちに、卵を生みつけている。(そこにはこの間ぬぎすてられたサナギのからがそのままくっついている)。蝶はそれからもジョウロの柄にとまったり、朝顔の花を訪れたり、ククミスの葉にとまったり、網戸の傍を舞ったりとかして…なかなか立ち去らない。何度か空高く飛び去ってもまた舞い戻ってくる。合計15分くらい散歩?しただろうか。
 どうもあれは自分の生まれ故郷へ舞い戻ってきた、例のキアゲハみたいに思えてくる。あれは3兄弟でなく、姉妹だったのかもしれない…とか。蝶が生まれた場所に卵を生みに戻って来ることはあるのだろうか。まさか!と思ってネットで調べてみた。そしたら、そんな例が当たり前みたいに挙げられていて、おどろいた。
この前、羽化したのが今から9日前だったから、あの蝶の寿命としてもそろそろ終わる頃だし…。それにあの羽化した場所の近くばかりを、しきりに飛び回っていたし…。手を出したら指にとまりそうな感じだったし…と、蝶と心が通じたような気分で、いろいろ心を遊ばせているのはたのしい。固体識別ができなくて残念だが。
 それにしても、ネットで見ると、90個余りの卵からうまく成虫になる蝶は、統計的にはわずか0.6匹という数字が出ていた。自然の状態では、200個近くの卵からわずか一匹くらいというわけ?よほどついてなければ生き残れないわけだ。
 この夏はキアゲハに始まり、キアゲハに終わった感じ。だが今日の卵がまた孵化したらどうしよう?ほとんど食草ものこってないし。

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薬指の標本

映画「薬指の標本」(原作小川洋子・監督ディアーヌ・ベルトラン)を見た。映画館へ行くのは暑さしのぎみたいなところもあるけれど、これは作品としても結構おもしろかった。
冷ややかな触覚的視線が画面をなめるように進んでいくふしぎな官能性があって…。そして映画の舞台の背景は港町であり、その雑駁な落ち着きのない日常の喧騒が、女主人公の暗い淵をたたえたような孤独を浮き上がらせるすばらしい効果をもっている。私はそのことにおどろく。
ここは横浜。私はいつもの風景のなかにいる気になる。そこはいわゆる歌謡曲のなかのロマンチックな港ではない。働く港湾労働者たちのいる日常のリアルな港町なのだ。そこは日本ではない、フランスのどこかの港だが。また彼女の泊まっているくたびれたホテル(知らない男と昼夜で分けて、一室をシェアしている…。顔をあわせることはない)の建物も、なぜか赤レンガ倉庫のイメージなのだ。
映画とはストーリーでなく、映像なのだと証しする作品だった。そしてまさにフランス映画だと感じる。小川洋子作品の雰囲気が、フランスの女性によってどのように生かされているのかと、文庫本の「薬指の標本」を買ってきて、夜中に読んだ。映画と小説はまったく別物であることははっきりしているが、映画としても、作品の雰囲気をこわさない、出来のいいものだと思った。(もちろん好みはあるけれど)。
ベルトラン監督はあの小説をネタに映画化する楽しみを存分に味わったにちがいないと思った。このようにして、ある作品に触発されて、自分なりの別世界を生み出すことは、多かれ少なかれ私たちにも経験があること…。作品をつくるということは一種の演奏行為でもあるのだから。
ところで付け足し。この映画の主人公は「靴」だと思う。原作と映画ではその靴の色が違う。そして残念なことに、映画の色の方が、印象に強く刻まれてしまうこと。(なにしろすてきな靴なのです)。映像の色は強い。原作を最初に読むべきだったかも。

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キアゲハ羽化

 キアゲハ3兄弟の長子?が今朝やっと羽化した。蛹化してから8日目。打ち続く酷暑で心配していたので、今朝7時前頃にふとのぞいたら、いつの間にか傍の茎に黄色いものが! この間の第一代目の蝶も気がついたら羽化していて、ほんとにびっくり。
 
 今回もまた前の時のように折悪しく雨模様で、心配で、家の窓際に鉢ごと取り入れて様子を見ていたが、まもなく雨が上がって日ざしが見えてきた。そこで窓をあけてやったら、ちょうど10時頃、見事な翅をひらいて、空高く舞い上がり、バルコニーから東の森(木立?)へはるばると飛んでいった。後はうしろ姿を見送るばかり。でもどこかで「やったあ!」という爽快感。羽化後初めて見せるあの飛翔のすばらしい軌跡にはいつも感心してしまう。そしてどこか肩の荷を降ろした気分になる。
 だがここへ至るまでには悲劇も! この3兄弟の二匹目は前に書いたように、蛹になるまえに忽然と蒸発してそれきりゆくえ知れずだし、一番末のチビが数日前に実は昇天してしまったのだ!この末っ子はいつまでも大きくならず、(普通の三分の二くらい)、それでもパセリの茎にしっかりしがみついていて、ほとんど何も食べなかった。なので、心配になってきて、スーパーのハーブ売り場で、イタリアンパセリを探してきて、そのやわらかい葉に乗っけてみたり、(それでも全然食べない)余分な世話を焼いて、結局最後に地面に落ちてアリがくっついているのを発見。摘み上げて、イタリアンパセリの葉にまたのっけてやったが、結局だんだん弱っていくばかりで、次の日にはみまかってしまったのだ!なんていうことだ!放っておけば案外勝手に大きくなったのでは…と悔やんだり、一寸の虫にも五分の魂というけれど、ほんとにこんなチビにこれだけがんばって生き抜こうとする力が潜んでいるのだ…と感心しながらも悲しくなるのだった。
 今日のキアゲハの飛翔を見ると、一面救われた気分になるが、挫折したチビがまた哀れになって、どんな命にせよ夭逝というのは絶対よくないことだと思ったり。
 それからもう一つ、こういう虫たちのかたわらで時間を過ごしていると、ヒトというのは粗っぽい存在だなあ…、となぜか痛感するのです。それと自然と付き合うときは「待つこと」,関心を持ちながら「じっと待つこと」が必要だと分りました。あせってはいけないと。
 見えないけど、世界の隅々でこういう命たちがけんめいに生きているんですね。 以上でこの夏のキアゲハ3兄弟の物語はおしまい。まったく生きものと密に接することは、なんにせよ、しんどいことです。
 ”一匹目は真昼に蒸発し…、二匹目は夜明けに墜落し…、そして三匹目は東の森へ飛んでった…。” まるでマザーグースのTen little indian boys の始まりみたいですね。

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マリー・イン・ザ・モーニング

 今日はまた一段と暑くなったようだ。キアゲハ兄弟のいる鉢まで家の中に入れたり、また出したりと…親ばかをやっていた。74年ぶりの記録となる40度オーヴァーの地があったという。明日がまた怖い。
 今日はエルビスが他界してから30回目の記念日。午後、バラードを何曲かと、好きなCD「ムーディ・ブルー」をきいた。久しぶりだが、やっぱり新鮮な衝撃だった。
MARY IN THE MORNING
Nothing’s quite as pretty
As Mary in the morning
When through a sleepy haze
I see her lying there
Soft as the rain
That falls on summer flowers
Warm as the sunlight shining
On her golden hair,oh…
「マリー・イン・ザ・モーニング」の甘くて、ちょっと切ない歌声は、いつまでも耳の底に響いている。でもあれから風のように30年の月日が流れた。彼のバラードをきくたびに、歌詞が生き生きとしたせりふのように伝わってくる気がしてしまう。
 《朝のマリーほど美しい人を見たことがない。ぼくはまださめ切らない眠い目で、よこに眠る彼女を見つめる。夏の花々をぬらす雨のようにやさしく、金色の髪にたわむれる陽の光のようにあたたかく…》
   

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真昼の脱走劇?

今日、炎暑のバルコニーで、ちょっと目を話した隙に(4,50分ほど?)キアゲハの蛹化寸前の幼虫が鉢から脱走した。3兄弟の2番目が…。さっきまで茎のてっぺんにしっかりかじりついて、イタリアンパセリの花と実を坊主にしていたのに! どこか近くを這っていないかと、灼熱のバルコニーをそれでもあちこち捜しまわったが、影も形もなし。傷心の私!昨日は一番上?のが、これも真昼の脱走劇を何回も繰り返した挙句、やっと鉢の中に腰を落ち着けてくれて、今日はみどりの蛹になったところなのだが。(蛹になる前の場所探しの猛烈な徘徊は驚くばかりだった。)
さて消えた二匹目はどこへ?わずかの間に雲隠れなんて、もしかしてどこかの鳥さんがきて、食べちゃったのかなあ…。それならまだしも…。もしバルコニーの片隅で熱中症になって伸びているところを、アリに引っぱられていったのでは? 一生懸命見守ってきたので、それが一番痛手だ。
仕方ない。未練がましく後追いするのは止めて、3匹目のチビの大きくなったときには、もっと注意して、ここにおいでいただくことにしよう。と、いまはあきらめの心境です。

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