夢という、不思議なもの

夢について、いい文章を読んだ。作品社から出た「夢」というシリーズの高橋たか子の一
文です。
(私の場合、目が醒める時、夜の間に生きていたらしい生活について、妙に豊穣なものと
いう印象とともに目が醒めることは事実である。断片的な記憶が去っていくことがないよ
うにと、しっかり意識にピンで留めておき、それを反芻していると、それを含んでいる夢の
時間全体の豊穣さが、髣髴させられる。ああ、いい生活を送っていたな、と感じる。その
生活を具体的に知りようがないにもかかわらず、そういう感じが残るのである。良い夢の
場合はもちろんそうだが、悪い夢の場合にすら、現実の世界にはないような豊穣さが感
じられるのは、なぜだろう。豊穣さというのは、なまなましさ、一杯に充ちている命、緊密
さ、などと言い換えてもいい。)
 このさいごの行をよむだけで、私はこの人の作品をきちんと読んでみたくなる。
(ネルヴァルの「夢はもうひとつの生である」にたいして、私は「夢は唯一の生である」とい
う言葉を提出しよう。)
(じつに不思議なことだと思うのだが、原稿用紙をひろげて、スタンドを灯すと、白い紙の
上に、明かりの輪ができ、その小さな場所から、私は何処にもない世界にたちまち入っ
ていくのである。)
(私は、夜は、いわゆる夢のなかで生活し、昼間は、小説という形式をもった夢のなかで
生活しているといった次第なのだ。その両者は無関係どころではない。深いところで一
続きになっている。両者の間で違う点は、夜のほうの生活については意識的でないのに
反して、昼間のほうの生活については意識的だということだけである。…いったい何処か
ら、知らない素材ばかりがこれほど出てくるのか、自分でも気味が悪いほどである。もし
かしたら、夜の夢のなかで体験しているが、その体験が知りようもないままに私の頭の
なかに蓄積されている、そんな無意識の記憶から、私は素材を取っているのかもしれな
い。だが確かにそうなのかどうか、それを知りようもない。)
私は大庭みな子の作品が好きだが、彼女と高橋たか子が、親しい友人同士であり
二人でよくこんな話を交わしたという文章を何かで読んだことがある。
背後に豊穣な夢を負って生きる人々が多い世は、昼の世もまた陰影の深いものになる
ような気がする。そのような人々の出会う世の中はまた、含蓄の多い言葉が交わされる
世の中でもあるだろう。
ところで私は今夜どんな夢をみるのだろう。予想できないところが夢の魅力だけれど。

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