新川和江詩集『ブック・エンド』には、心惹かれる詩が多く、宇宙的な時の流れと、その時間をつかのまよぎっていく生きものの時間との接点に、しばし立ち止まっている自分がいた。
黒馬 新川和江
ベッド・サイドに
あの黒馬が来ている
目をあけなくても
濡れたたてがみから滴るしずくが
額に冷たくかかるので
それとわかる
あの日
やわらかな草地に二人を降ろして
湿原にはいって行き
ついに戻って来なかった黒馬
湿原には谷地眼(やちまなこ)といって
ワタスゲやミズゴケに蔽われ
薄眼をあけて空を見上げているような沼が
其処此処にあり
夏季でも零度に近い水温が
底深く嵌ってしまった動植物を
生きたままの姿で永久に保存するという
とすれば黒馬の
濡れた睫毛のかげのあの眼球には
最後に映した二人の姿が
あの日のままに焼きつけられて いるのかも
消息も聞かなくなって久しいが
あのひとの眠りの中にも
馬は時折おとずれるのであろうか
北国のみじかい春
草地に坐って二人は何を語り合ったか
今はもう 昔詠んだラヴ・ロマンスか
映画の中の一齣のようにしか 思い出せない
眠りの中に
ふと現れることがある黒馬だけが
つややかに若い駿馬のままで
””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
谷地眼のところは、原文はルビですが、( )にしてしまいすみません。
眠りの中にふと現れる、つややかに若い駿馬…それこそ、時が詩人に再び与えてくれるひそかな贈り物かもしれない。人はだれでも、あるとき、つややかな駿馬を野に放ったことがあるのだから。
谷地眼という湿原の沼が”夏季でも零度に近い水温”で、”底深く嵌ってしまった動植物”を”生きたままの姿で永久に保存する”という、沼と、黒馬の眼に沈む、時の結晶化、そのアレゴリーのたくみ。
私の夢のかたわらにも、いつかそんな黒馬が来てくれるといい。来るならば、馬はやっぱり黒馬でなければ…。