少年

送られてきた詩誌『アンドレ』10には詩のほかに、詩人論(黒部節子 6)、評論「詩とは何か」「詩(私)的現代」などが載っていて、いずれも興味深く、一気に拝読しました。1998年創刊以後、
16年で、これが10号目である由、おめでとう!と申し上げたい気分です。これは宇佐美幸二さんの個人誌です。私もこのところ一年に一冊くらいのペースで、同人詩『二兎』を出しています。特集のテーマによって、そのたびに未知の領域にいささかの冒険を試みることができ、自己啓発?できるのが、楽しみです。今、5号『象を撫でる』の編集中です。
さて『アンドレ』から、心ひかれた作品「少年」を載せたいと思います。

    少年         宇佐美幸二

気配がした
トンボが羽をたたんで
車のハッチバックドアの溝あたりに止まっていた
ハグロトンボらしい
ぼくを横目で見ているように静止している
なにか言いたいの?
警戒する様子も見せず
たしかにこちらを窺っているのだ
かまっている暇はないので ドアをあけたまま
人に会いに出かけた
もどってみるとトンボの姿はなかった
あれは誰だったのだろう?
もう十一月になろうとするこんな季節に
山近い ひっそりとしたこの地で誰が
ぼくに会いに来たのだろう
そういえば今日は雨が降ったあとの
どんよりとした空気は
この世の構図がすこしばかり歪んでしまったようだ
ぼくはきっと
どこかに置きざりにされているに違いない
時間もなにもないこの世界の
ちいさく鈴の鳴る底のほうで

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さりげなく書かれているような、このある日の少年の見た風景。ちいさなトンボと少年の間にきらめいた一瞬の時間。少年だからこそ抱きうる、はるかな時間へのあこがれが、消えていくトンボの上に投げかけられ、特別な一刻をきらめかしている。”この世の構図が少しばかり歪んでしまったような一刻”
ひとり置きざりにされた…時間。でもそこはこの世から外れた音のない世界、ではなく、” ちいさく鈴の鳴るこの世界の底”だった。
大人たちが失った、でも、いつかは聴いたことのある鈴の音が詩人の耳の底には、残響のようにひびいている。
もうひとつの詩作品「妖精の悲劇」にもこの世界に同化しきれず、夢幻の中をさまよっているような異世界の存在とのふれあい方が描かれ、そのような「気配」としてのものたちの近くにこそ、この詩人の詩的居場所が置かれていることに気づきます。
現代に巻き込まれている人間としての、こわばった自意識がゆるむと、自分も、かつてはたくさんのちいさな気配のただなかをさまよっていたたことに気が付きます。

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