サーラの木があった

以倉紘平さんの詩集『フィリップ・マーロウの拳銃』のなかから、好きな詩をひとつ載せさせていただきたい。
            サーラの木があった
駅に着くと
サーラの木があった
思い出せるのはただそれだけである
そこからいかなる言葉も紡がれようがなかった
こころみるとすべて作りごとのような気がしてくるのである
〈駅〉とは何だろうそれはこの世のことではあるまいか
〈着く〉とは何だろうそれは遠い所から
この世に生まれたことを意味しているのではあるまいか
サーラには匂いと色があったはずだ
甘い花のかおり
風がにおいを運んできたのだろう
(風はひろびろとした野の方に過ぎさったのか
びっしりとつまった街の家並みのほうへ吹きすぎたのか)
そう書くともう汚れてしまう感じなのだ
たくさんの小さな花
朝日に輝いていたのか夕映えにきらめいていたのか
(乗客の中に行商のおばさんが
少女が乗っていたのかどうか
だいいち駅名や時刻表があったのかどうか)
そんなことを考えるともう嘘のような気がしてくるのである
だから
なにか豊かなものがあったとしかいいようがない
白い花の色とかおり
すみやかに時が流れ
あっという間だった
この世のことはもうそれ以外に
ぼくはなにも思い出せないのである
   ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
 この詩集は装丁にも粋な題名にも、心ひかれた。 サーラの木とは、あの沙羅双樹の沙羅の木のこと。お釈迦さまが亡くなられたとき、いっせいに花開き、降り注ぎ、その死を悲しんだと言われる木である。朝開き夕べにはしぼむという、その一日花は夏椿とも呼ばれてる白い美しい花である。
 私は、以倉さんの詩にはいつも深いところでの心の共振のようなものを覚えている。「人が生きている…その根源にある大きな感情に触れることができ、さらにそのかなたへと思いを運んでくれるような…」と、私は手紙に書いた気がする。そして、そのかなたとは、ふしぎに懐かしい場所なのだ。
 彼のこの前の詩集『プシュバ・ブリシュティ』のなかにもサーラの木のことが出てくる。
その”〈サーラ〉という語”という詩のなかから一部を引用したい。
 (きれはししか思い出せない夢がある。気分情緒しか残っ
 ていない夢もある。たしかに見た夢でありながら、わたしの
 意識にひとたびものぼることなく忘れられた夢は、誰に
 所属しているのだろう。そのときの夢はどこを旅してい
 るのだろう。ことばの及ばぬ内面世界のはるかな時空だ
 ろうか。それは日常の世界を越えて旅するもう一人の私
 である。意識の上に突如としてのぼってくることばは、
 未知の領土を 旅するもう一人の私からの通信である。/……
 宇宙樹サーラは、 その枝葉のやみに青い地球を抱えている。/
 人間はサーラの花散る宇宙 をよぎる旅人である)
  
              
                   
 
             

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